むかしむかしあるところに
悪逆非道の王国の
頂点に君臨してた
齢十四の王子様
のちの人々はこう語る
嗚呼 彼こそ正に悪ノ王子
プロローグ 旅の青年
「くあ……」
抜けるような青空の下。青年は口を大きく開けて両腕を上に伸ばす。呑気に欠伸をしている間にも適度な揺れが体に伝わり、座ったままでも景色が動いていく。
街道を進む荷馬車。その荷台に青年は乗っていた。
青年は蒲公英と同じ金色の髪を首筋で結んでおり、目の色は深い蒼。左目の下、頬骨の位置には一筋の傷跡がある。長剣を右腰に下げ、傍らには荷物が置かれていた。
「良い天気だなぁ……。眠ぃ」
精悍な顔を緩ませ、青年はまた欠伸をする。暖かな日差しと調子の良い揺れは眠気を誘い、今にも居眠りしてしまいそうだった。
両手を付いて体を逸らし、顔を逆さにして御者台に向かって問いかける。
「なあ、おっさーん!」
ややだらけていたが、青年の声は荷馬車の振動音にかき消される事もなく、すぐ御者台から中年男性の声が返って来た。
「何だい兄ちゃん!」
「後どれくらいだー?」
目的地までの時間を尋ねた青年に対し、手綱を握る男性はやや大きな声で答える。
「この調子だと後一時間ってとこだ! 速度上げるかー?」
急ぐのならそうすると言われたが、青年は片手を軽く振り、激しく揺れるとゆっくり寝られないと抗議する。
「あまり速度上げないでくれ! 居眠りするならこれくらいが良いんだ!」
男性は冗談交じりの台詞を笑って受け止め、了解したと青年に伝えた。
二人が乗る荷馬車が通っているのは黄の国の街道。行き先は黄の国王都である。
青年が王都近くの町から出発しようとした時の事。偶然同じ時間帯に町から出る荷馬車と目的地が同じであるのを知り、王都まで乗せて貰えないかと頼んだのだ。男性から快く承諾を貰った青年は、こうしてのんびりと移動を楽しんでいる訳である。
青年は両手を荷台の床に付けたまま顔を上に向ける。双眸に映るのは雲ひとつない空と、どこまでも広がる青を背景にして飛ぶ鳥だけだ。ぼさぼさの髪を揺らす風は穏やかで、道行きは平和そのものだった。
顔を正面に戻し、青年は周囲を何気なく見渡す。一瞬だけ視界の隅に入った小さな黒い点に違和感を覚え、同時に首筋の産毛が逆立つ感覚がした。虫の知らせと言う曖昧なものではない。
青年は荷馬車の後方に目を凝らしたまま、荷台のへりを握りしめて体を固定する。
「おっさん! 速度上げてくれ!」
今から全速力で走ればなんとか振り切れるはず。かなり揺れるだろうが我慢だ。
切迫した叫びを聞いた男性は速度を上げず、何かあったのかと振り向いただけだった。御者台から点は見えないのだろう。男性は青年がいきなり大声を上げた事に驚いている様子である。
「どうした兄ちゃん!?」
荷台から見える複数の点は徐々に大きくなる。馬に乗った人間だと分かるまで時間はかからなかった。迫る危機に気が付かない男性に焦りを覚えつつ、青年は再び声を張り上げる。
「いいから速く! 野盗だ! このままだと追いつかれる!」
男性は危機に気が付き顔を青くする。馬の速度を上げようとするが、手が震えて手綱を上手く操れない。恐怖のせいで馬になかなか指示を送れずにいる。
「まずいな……」
危険を知らせる為に野盗だと言ったのが裏目に出てしまった。青年が自分の判断が誤っていた事に顔をしかめた時、体が後ろに引っ張られる感じがした。上下に激しく揺さぶられ、馬がやっと走り出したのを青年は理解する。荷物が跳ね飛ばされないよう足で押さえながら、散開してこちらに迫る野盗を睨みつけた。
走り出したのが遅すぎる。追いつかれるのは時間の問題だ。青年は腰の剣を一瞥し、続けて御者台を振り返った。たまたま顔を後ろに向けていた男性と目が合う。
戦いに慣れない普通の人が野盗を見れば恐怖が増大され、ますます冷静な判断が下せなくなる。そうなれば自身の命を更に危険にさらしてしまう。
振り向くな。前を見て走る事だけを考えろ。青年はそう言いたかったが、激しい揺れが口を開く事を許さない。喋れば舌を噛む事になる。
男性がよそ見していたのが災いし、荷馬車はそのままの速度で道端の石に突っ込んだ。
「うわっ!」
耳を突き刺す音と共に荷台が斜めに傾き、青年はへりにしがみついたまま声を上げる。足で押さえていた荷物が御者台側へ転がるのを見る余裕は無かった。浮きあがった車輪が地面に戻るまでの間に距離を縮められ、荷馬車は四人の野盗に囲まれた状態になってしまっていた。
先頭を走る野盗が御者台の男性から手綱を奪い取り、馬を宥めて速度を緩める。その時には、青年は既に荷台のへりから手を離して御者台に体を向けていた。
荷馬車が停止して野盗に包囲される中、青年は無言でゆっくりと立ち上がる。手綱を奪った野盗が青年の動きに気付き、馬に乗ったまま優越感を隠そうともせずにせせら笑った。
「へへ。死にたくなきゃ大人しくしてろ」
馬から降りた他の野盗も似たような笑みを浮かべて武器を持っている。数の上では絶対的に有利。こんな優男に負ける訳がないと言う雰囲気になっていた。
手綱を握った野盗が馬鹿にするように質問する。
「兄ちゃん一人で俺達に勝てるとでも思ってんのか?」
青年の返事は、短かった。
「ああ」
荷台を踏み抜かんばかりの音が鳴る。強烈な踏み込みで間合いを詰め、青年は御者台側にいた野盗へ蹴りを放った。
「ぎゃっ!?」
勢いが乗せられた左足は顔面へ吸い寄せられるように直撃する。無様に落馬する野盗には目もくれず、青年は男性にしか聞こえない大きさの声で何かを伝えた。男性は驚きの表情で反論したが、青年は微笑んで返す。
「気にするな」
地面に降り立ち、垂れ下っていた手綱を男性に放り投げる。突然の出来事に呆然としていた野盗が我に返り、馬から落とされた男が起き上がる頃には、荷馬車は青年を置いて動き出していた。
「待ちやがれ!」
野盗の一人は追いかけようと鐙に足をかけたが、即座に青年の体当たりを食らって乗馬を妨害される。
「待つのはお前らの方だ」
青年は野盗から数歩距離を取り、速度を上げて離れて行く荷馬車を横目で見る。男性の安全を確認して安堵の息を吐き、四人の人間を見回した。
獲物をみすみす取り逃がす羽目になり、野盗は大層お怒りのご様子である。それぞれがこれ見よがしに剣を向けていたが、ろくに手入れをしていないのが一目で分かった。一人は鼻から止めどなく血を流している。
自分が蹴りを入れたせいだとは言え、先にやる事があるだろうと思った青年は脱力して呟く。
「とりあえず鼻血止めろよ……。結構凄いぞ」
焦りも動揺も無い調子の声を聞き、鼻を折られた野盗は血を流したまま憤慨する。
「うるせぇ! この鼻の礼をしてやる!」
「さっきはよくも邪魔してくれやがったな! 覚悟しやがれ!」
体当たりを受けた男も喚き、野盗は青年の前を塞ぐように立って騒ぎ出す。
はいはい、そうですか。
青年は耳障りなだみ声を適当に聞き流す。大した事のない言葉で冷静さを失い、典型的な台詞を吐いている時点で三流悪党に決定だ。大方、荷馬車の事はもう忘れているだろう。
何も言わないのを怯えと捉えたのか、野盗は調子に乗り始めていた。青年の剣を指差し、武器を捨てて泣いて謝れば命だけは助けてやると嘲笑する。
青年は、低俗な事しか言わない野盗の評価を変える事にした。
「三下」
野盗の騒ぎ声がぴたりと消える。思考が止まって動かない相手を前に、青年は静かに左手を右腰へ伸ばす。
時間が止まったような静寂で、剣を鞘から抜く音が生まれた。
青年の腕よりも拳一つ分程長い剣は、宝石などの装飾が無いごく普通のものだった。青年は両手でも片手でも握れる長さの柄を左手で持ち、肩に担ぐような姿勢になる。
「三下、だとぉ!?」
固まっていた野盗がようやく何を言われたのかを理解して怒り狂う。軽い挑発に乗って顔を赤くした相手に、青年は体を斜めにして右半身を前に向け、空いている腕を上げる。
ふと、前に似たような事があったのを思い出した。あの時も賊は四人。あの頃は自分と同行者を守るのに頭が一杯で、他の事を考える余裕なんて無かった。
己の成長を感じ取り、青年は不敵な笑みを見せる。こんな連中程度に遅れを取る気はまるで無い。
右手の人差し指を立てて前後に動かす。
「かかって来いよ。三下」
止まった荷馬車の御者台に座る男性は、青年を見捨ててしまった後悔に苛まれていた。
俺の事はいい。とにかく逃げろ。
青年を置き去りにして逃げた負い目と、自分の命を守るには仕方が無かったと言う気持ちが入り交じり、男性は目を閉じて胸の前で組んだ手を震わせる。あの青年は、見捨てた相手を恨んでいるに違いない。
「おっさん」
いないはずの人間の声が聞こえた気がする。許してくれ。どうか許してくれ。
「おっさん!」
背後から聞こえた声は、幻聴の割に随分はっきりしていた。体を震わせながら振り返ると、蒼色の目と正面から視線が合った。
男性は頭の中が真っ白になる。数秒間そうした後、冷や汗を浮かべた顔で絶叫を上げた。
「ど、どう、して、どうやって……?」
御者台から転げ落ちんばかりに驚いた男性に、青年は荷台にしゃがみ込んだまま答える。
「どうしてって……。俺の荷物置いたままだったし」
何かおかしな事でもあるのかと、荷台に転がっている荷物を指差す。旅の必需品が入っているので、無くすと非常に困ると説明する。
青年は手を動かして指の向きを変える。男性がそれを追うと、どうやって追いついたのかの答えがあった。
「あれを拝借してきた」
おそらくは野盗が使っていたであろう、一頭の馬が荷馬車の近くに立っていた。男性は馬を指差す青年を見て、野盗はどうなったのかを聞く。
もしかしたらまた襲われるのではないかと怯える男性に、青年は大丈夫だと断言する。
「全員に戦闘不能の怪我を負わせたし、手綱を斬って馬具も外して来た」
追いかけて来る心配はしなくて良いと笑う。戦ってきた直後にも関わらず、青年の服には破れたり斬られたりした跡も無ければ、体のどこかに返り血を浴びた様子も無い。
男性は御者台から飛び降り、自らの所業を詫びた。
「すまない! 申し訳ない!」
青年はいきなり土下座をした男性に目を丸くする。人を見下す格好で謝られるなど気分の良いものではない。
「あー! そんな事しなくていい!」
自らも地面に降りて男性を立たせる。あの状況なら仕方がない、普通の人なら怖くて当たり前だと男性に話す。
なおも謝罪する男性をどうにか宥め、青年は荷台に乗りこむ。悪いと思っているのなら、王都まで安全な走行をしてくれと頼んだ。
「そいつをどうするかは任せた」
乗って来た馬を示してから、体の左側を下にして横になる。付いたら起こしてくれと手を振り、話を終わらせた。
男性は何かを言おうとしたが、青年が目を閉じたのを見て話しかけるのを止める。元野盗の馬を歩かせながら御者台に戻り、荷馬車を引く馬の手綱を握った。
小気味の良い揺れを味わいながら青年は薄く目を開き、ここにはいない人に向かって話しかけた。
「俺は、生きてるよ……。リン」
数年前、目の前で失った片割れの名を呼んで再び目を閉じる。
君が望む形とは違うのかもしれない。だけど、俺は今こうして生きている。
青年はかつてこう呼ばれていた。
『悪ノ王子』と。
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翔破
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