仮面の向こうからの視線が真っ直ぐに僕を射ていた。
彼女の振り分けた長い髪に飾られたレースが揺れるのを視界の端に捕らえながら、その視線を受け止めて。もう何度目だろうか、この閉じた世界で出会うのは。他の娘たちならどんなに着飾っていても、向けられるものを気づかないふりをして受け流すことができるが、どうしてもこの娘にだけは自分が恋心に酔っていることを悟られそうだった。
貴族社会で舞踏会が行われそれに出席するのは政略結婚のためだったり、政界への進出が目的だったり、それぞれに理由がある。僕にとってその理由はこの娘に出会うことだった。
長い髪を結い上げた彼女はとても目立つ。いや、他の娘に目もくれないからこそいつも目立つと思えるのかもしれない。僕はすっかり彼女にすべてを絡めとられていると感じていた。
「……一曲お相手願えますか?」
「喜んで」
ふわりと彼女の髪から若々しい緑の香りがする。どんな香水を使っているのだろう。同じ香りを僕は感じたことがない。他の娘たちと同じように声を毎回かけているけれど、僕は彼女の時だけにこめられた熱っぽさを隠すことがきっとできていない。
ワルツに合わせてくるくると回る男女。僕らもその中のひと組だ。仮面舞踏会とはいえ、ダンスを共に踊ればお互いの顔は吐息を感じるほどに近づく。
――彼女はなにを思っているのだろう。
僕が思うのはそんなことばかり。
彼女と踊る以外、目的なんてなかった。そのためなら堅苦しい正装も、むせるかえるほどの白粉のにおいも、すべて我慢できた。洒落た会話だってやってのける。我が家の次期当主としてのつとめだって果たしてみせた。
今宵すべてはただ一曲、この長い髪を振り分けた緑の君とワルツを踊るため。
朝目覚めて、真っ先に感じるのは昨日踊った彼女の緑の香りだった。
あの後誰と踊っても僕は真剣ではなかったし、鼻腔に残るのは彼女の痺れるような甘い吐息。こんなに夢中にさせて罪な人、と何人かの女性に言われた覚えもあるけれど、僕の焼け付く心を射止めているのはあの緑の君だけだ。
「おはようございます、お召し物をお持ちいたしました」
召使が青いひと揃いを持ってノックと共に寝室に入ってくる。彼には朝寝室に入ってくる許しを与えているので問題はない。いつものように着替え、朝食を取り、退屈な予定をこなす。
父上はそろそろ僕に結婚を勧めているし、何人かの貴族令嬢と夕食でも、と言ってきているが僕は構っていなかった。僕が求めているのはあの緑の君だけだ。幼い頃に決められた許婚は随分前に流行り病で亡くなっていて、それ以来許婚と言えるものは決められていない。そろそろ身を固めてもおかしくはないのだが。それはわかっている……。
――あの緑の君はどこの娘なのだろう。
そう思いながら、週末にある舞踏会に僕はいつも心を馳せるのだった。
しかし、夕食の時に母上から告げられたのは次の週末は従姉妹の家で行われる舞踏会に行くということだった。
あまりに自由に遊びすぎる。
咎められる言葉も耳をすり抜けていく。今週末は緑の君には会えないんだな……。
週末まで責務やら色々なことをこなしていたけれど、いつもと違って時間が流れるのはとてもゆっくりだった。
いつもならば――待ちわびて仕方ない週末も憂鬱だ。
浮かない顔をしている僕に父上はなにか言いたげだったが、結局なにも言われることなくその日は訪れた。
「今日はお前の遠縁の令嬢もこの舞踏会に来ているそうだ。後で会わせるので粗相のないように」
「わかりました、父上」
形だけの返事に心なんてこもっていない……今日は仮面舞踏会ではない。ずっといい返事をしない僕に父上も母上も痺れをきらしたのか、僕の従姉妹の家で開かれる舞踏会に僕を連れていったのだった。
いつも開かれている仮面舞踏会に行けないことを苦しく思った。緑の君には会えない。それだけで気持ちは萎え、体が重たい。
なるほど、従姉妹は随分と金をかけたらしい。彼女自身も真っ赤なドレスに身を包み、今日の主催として相応しい振る舞いをしている。どこにいるのか最初の挨拶の後見失ってしまったけれど。
知り合いと交わす挨拶は肩が凝るが、友人と交わす言葉遊びを楽しんだ。
「そういえば最近ずっとご執心の令嬢がいるんだって?」
「どこでそれを知ったんだい?」
ダンスの輪から僕と同じく抜け出した友人は笑ってワイングラスをかかげる。
「青の次期当主は緑の君しか目に入っていない――ずっと噂になっているよ。君に対して恋心を抱いていたご令嬢が随分と泣いたそうだが」
「どこの令嬢かも知らない。ただ仮面舞踏会で一曲踊るだけの仲さ。君の期待しているような関係ではないよ」
「そうかい? 期待しているんだけどな。君があの緑の君にどんな罠を仕掛けて射止めるかってね」
友人は情報通というわけではない。なのにこんな噂を知っているということは、僕が思っているよりずっと広まってしまっているのか? こんなことがあの緑の君に知られたらもう踊ってくれないかもしれないな、と胸が痛んだ。
ため息をついてしまう。それも喧騒にすべてかき消されていく。
豪華な料理も、上質のワインも、たくさんの貴族たちも色あせて見えた。
あの緑の君がいるだけで、すべては美しく輝くというのに……。
「随分と会話が弾んでいるようだが、いいかね」
「これはこれは、お久しぶりです」
父上は僕を探していたらしい。遠慮なく話しに割ってきた。友人は軽く挨拶をして最近流行っている兎狩りについての話題を振っている。僕はあまり好まないがたしなみとして狩と乗馬くらいは心得ているから、十分話にはついていける。
ところで――とひとしきり盛り上がった後父上は僕に向かって言った。
「そろそろお前を会わせたい人が到着するそうだ。来なさい」
じゃあまた、と満足に去り際の言葉も交わすことなく友人と別れ、僕は父上について行く。途中何人かに声をかけられ、そのたび足止めされるが僕たちは従姉妹の屋敷の扉へと向かった。
話していた遠縁の令嬢を出迎えろということなのだろうか。真っ赤なドレスの従姉妹もいる。彼女にとっては妹のような存在なのだという。
馬車が止まる音。一番外のドアが開く音。それが閉まると同時に開けられた僕らの目の前の、複雑な装飾が施されたドア。かすかに外気を感じる。
真っ白な大理石の床に敷かれた絨毯を、何人かと共にひとりの娘が歩いてきた。召使がしずしずと薄緑のドレスの裾を持ち上げ、軽く俯いた娘自身は開かれた扇でその顔を隠していた。
「お久しぶり、元気にしていたかしら?」
「お招きありがとうございます」
従姉妹に答えた声に、聞き覚えが、あった。
よくきたねという父上の言葉も、なにをぼうっとしているのと叱る母上の声も、耳に入らなかった。
だって、彼女は――。
「こんばんは」
そっと顔を隠していた扇が下げられて。
僕を見つめるのは、緑の瞳。
振り分けられた髪から若々しい緑の香りが、していた。
気づかないふりをしていたのは僕だけだったのだろうか? 緑の君は知っていたのだろうか?
僕は、この閉じた貴族社会ではありふれた恋心を彼女に抱いていた。従姉妹によれば彼女はごくごく幼い頃に一度二度僕と会ったことがあるという。その記憶は、ない。親戚だということなんて関係ない、僕を射止めていたのはその強い視線と、鈴を鳴らすような声だ。
だから。
「わたくしのこと、覚えていますか?」
その問いには。
「……ええ、覚えていますよ」
嘘を、ついた。
(その2に続く)
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もっと見るその日彼女とは三曲踊った。他の娘の相手もしたけれど、一番楽しかったのは彼女とのステップだった。
「お会いできて嬉しいです」
「僕もですよ」
ワルツの合間に交わすそんな言葉も今日は親しげで。
仮面のない、他の娘よりずっと薄化粧の彼女の顔はとても綺麗に見えた。
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