その日彼女とは三曲踊った。他の娘の相手もしたけれど、一番楽しかったのは彼女とのステップだった。
「お会いできて嬉しいです」
「僕もですよ」
ワルツの合間に交わすそんな言葉も今日は親しげで。
仮面のない、他の娘よりずっと薄化粧の彼女の顔はとても綺麗に見えた。
「貴方に会える日を心待ちにしておりました」
「もしかしたらどこかの舞踏会でお会いしていたかもしれないですがね」
「ええ」
くすりと笑う彼女は、気づいている。
笑みを返す僕だってわかっている。何度当たり障りのない会話をしながら踊っただろうか。夜毎のワルツの調べは僕らをしっかりと今につなげていた。
まさかあの緑の君がこの令嬢だったとはね――と幼い頃の思い出を振り返ってみるけれど、やはり覚えていない。あぁ、でもかすかに浮かんできたのは若葉のきらめき。初夏の庭園。水菓子の甘さ。
どんなレースも絹も宝石も、きっと彼女を飾るには相応しくない。一番似合うのはきっとこんながんじがらめの会話しかできない場所ではなくて――。
最後の曲の時ささやいた言葉は、僕の罠。
君のことをもう離さないための罠だ。他の令嬢のように誰かに奪われてたまるかと思った。心の僅かな隙間にも余分な男の足跡は残さないよ。僕だけですべて埋めてしまいたい!
「今夜からまた長い間お会いできないのは淋しいですね」
ワルツの音楽に合わせて、彼女の手をとる。そこにそっと口づけた。優しく、羽根が触れるようにそっと。
「また会っていただけますか?」
悪戯っぽくあの視線が僕に向けられている。
同じように、今度は気づかないふりをせずに受け止めて。
「喜んで……」
見え透いた誘いの言葉だときっと思っているのだろう。その君の油断はきっと僕にもっと深く罠を仕掛けさせる。
その返事を聞いた僕は、我が家に伝わるあの雪白な味がよいという粉薬……それを溶かしたとろりとしたよく知った毒薬を飲み干せる気がした。もう彼女という同じ効力を持った毒に僕は侵されているだろうけれど。あの薬と同じように僕は彼女に酔い、極めて除々に心を奪われていた。
次に緑の君――彼女に会えるまでそう長い時間はかからなかった。
あの日、従姉妹が僕を父上たちと共に舞踏会へ誘ったことには感謝せねばならない。仮面を取って真っ直ぐに視線を彼女と交わすことができたのだから。
ひと月、ふた月も経っただろうか。今度は僕が主催して従姉妹に招待状を送った。それを通じてきっとあの娘にも話はいくだろう。父上もやっと夜遊びをやめるのかと言っていたけれど、その原因が彼女であることまでは気づいていないようだった。
「今日はお招きありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ……よい夜をお過ごしください」
形式通りの挨拶だって今夜は苦にならない。友人にはにやりと笑われたが、意味はよくわからなかった。後でからかわれでもするのだろうか。
あの日とデザインの違う紅いドレスの従姉妹と、彼女は一緒に訪れた。今日も長い髪を両に振り分け、黒と緑のレースで飾っている。ドレスも先日より華やかに見えた。従姉妹が動なら彼女は静に思える。
他の来賓と同じように挨拶を交わし、僕は主催として相応しく振舞った。
その分忙しくもあったがそれも苦にならない。
ゆっくりと、彼女という劇薬に僕は侵されている……。
やっと自分がやるべきことから解放されたのはダンスも佳境に入ってからだった。あまり時間があるとは言えない。ワルツ、タンゴ、何曲踊れることか。形式という錆びつく鎖から逃れるあてなんてない。
「……一曲お相手願えますか?」
「はい」
彼女の若々しい緑の香りが鼻をくすぐる。
一秒一秒が貴重に感じた。響く秒針が止まればいいと抗ってしまいそうなくらいの熱い心。
「今日はお忙しいようですね」
「主催ですから……貴女は楽しんでおられますか?」
「貴方がいらっしゃらないので、少し残念でしたわ……楽しんではいますけれど」
「それは失礼いたしました」
「時間が早く過ぎるように思えます、ワルツのステップももったいないと思えるくらい」
「では後ほどお時間をいただけますか、マドモワゼル? 美しい貴女の貴重な宝石のような一秒を」
この曲が終わると同時に、予め指定していた通りに薄暗くなった中を僕らふたりは密やかに駆け抜けた。
初夏の庭園は深い緑の香りに包まれていた。風に乗ってかすかに薔薇の匂いがする。
そこかしこに同じように抜け出した男女がいるようだったが、薄暗い中では顔なんてわからない。きっと大広間では主催がいないと騒ぎになっているだろうが、そんな瑣末なことはどうでもよかったし、まだ何曲かダンスが続くはずだ。きっと後で父上に叱られるだろうけれど、今この甘美なひと時のほうが僕には大事なことだ。
「大胆なのですね、驚きましたわ」
少しだけ息を切らせた彼女がささやく。着飾ったドレスは重たいのだろう。つないだ手には汗がにじんでいる。
「貴重なお時間をいただけて光栄です」
かすかな笑みに今度は僕が毒を含ませて。彼女がそれに侵されてもう心が離れられないように。同時に僕もそっと抱き寄せた彼女のうなじから香る汗の匂いにただ侵されそうだった。
「わたくしを連れ出していただいて、嬉しいですわ。はしたないとは思うのですけれど」
「僕でよければ、何度でも」
視線を絡ませて、感じる彼女のありふれた恋心。そこに僕は、今罠を仕掛ける。お互い仕掛けあっているかもしれない。閉じた世界で交わされるのは洒落た言葉遊び――。
抱き寄せた彼女の体は柔らかかかった。どうしようもない熱さが僕を支配していく。
これからしたいと思っていることを見透かすような彼女の緑色の瞳が、僕をじっと見つめていた。その視界の僅かな隙間を覗けばすべてを手に入れられる気がした。
「わたくしのことを」
甘い吐息。どんな上質の酒もどんな劇薬もかなわない、僕を捕らえて離さないそれ。
「……捕まえて」
そっと触れた口唇の熱さはふたりとも同じだった。
もう離さないよ。絶対に。ずっと。君のことを。
抱き寄せた体とつないだ手と。汗の香りは甘美な毒だ。たとえばこのまま薔薇の茂みにその肢体を滑り込ませたいくらいに。
もう、仮面はいらない。
『カンタレラ』 了
参考・感謝
『KAITO・ミク』カンタレラ(第二版)『オリジナル』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2393562
作詞・作曲・編曲:黒うさP
唄:KAITO コーラス:初音ミク
【KAITO・ミク】カンタレラに絵をつけてみた【やっちゃった】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3078854
kagami様・作
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