巡音さんが言葉どおり『ピグマリオン』を貸してくれたので、俺は休み時間や、部活が始まるまでの短い時間に、最初の方を読んでみた。……映画を見た時はそこまで感じなかったけど、ヒギンズ教授って相当性格イタくないか? まあ、そこがギャグとして機能してるんだろうが……。お前はだだっ子かよ、と突っ込みたくなる部分がかなり多いぞ。まあ、説明書きにもはっきりきっぱり「ガキくさい人」と書かれていたりするが……。
部活が終わると、俺は本を鞄に入れて下校した。今日は俺が晩飯当番の日なので、駅前のスーパーで買い物をしてから家路に着く。ちょうど自宅の前まで来た時だった。
「あら、レン君。今帰り?」
あ、お向かいの岩田さんのおばさんだ。
「こんにちは、岩田さん。はい、今帰って来たところです」
頭を下げて挨拶する。
「ちょうど良かった。今、お宅に回覧板持って行こうと思っていたところなのよ」
岩田さんはそう言って、手にした回覧板を掲げて見せた。
「姉に渡しておきます」
俺は回覧板を受け取った。だが岩田さんは自宅に戻ろうとはせず、何か言いたそうにしている。
「どうかしたんですか?」
「やっぱり、言っておいた方がいいでしょうね」
何かあったんだろうか。
「何かあったんですか?」
「あったって言うか……最近、この辺りを不審者がうろついているみたいなのよ」
岩田さんはそんな話を始めた。
「お宅は若い娘さんと未成年の男の子の二人暮しでしょ。だから心配で」
まあ、確かに……。特に姉貴、帰りがえらく遅い時があるしなあ。
「お気遣いありがとうございます。姉にも言っておきますから」
俺がそう言うと、岩田さんは重ねて「気をつけてね」と言って、自分の家に戻って行った。不審者か……気のせいだといいけど、最近色々と怖いニュースが世の中をにぎわせているからなあ。
通学鞄、スーパーのビニール袋、回覧板、郵便受けの中身を持って、家の中に入る……持ちにくいな。分けりゃ良かった、ということに、家の中に入ってから気づく。まあいいか。一度自分の部屋で制服から私服に着替えてから、下に下りる。
夕飯……時間のかかるものは面倒だから、今日のメニューはうどんにしたんだよな。茹でるのは姉貴が帰宅してからにするか。下ごしらえをすませた後、俺は居間の座布団に座って『ピグマリオン』の続きを読み始めた。教授がイライザに最初着せる衣服が日本の着物というのがびっくりなんだが……上演するんだったらここは変えよう。いきなり着物姿でイライザが出てきたら、見る側は衣装が気になって話の筋がどこかへ行ってしまう。
「ただいま~」
そこへ、姉貴が帰って来た。
「お帰り、姉貴」
俺は本を置いて、立ち上がった。
「ご飯できてる?」
「今日はうどんにしたから、これから茹でる」
「そう、じゃ、お願いね。私は着替えてくるから」
姉貴は二階へと上がっていった。俺は台所に立って、残りの作業を始めた。
食事ができあがって、居間へと持って行くと、姉貴は俺がテーブルの上に置きっぱなしにしていた『ピグマリオン』を読んでいた。……こら。
「姉貴、それ、俺が友達から貸してもらった本なんだから、勝手に読まないでくれよ」
「別にいいじゃない」
「良くないっ! さっき言っただろ、借り物だって!」
俺はテーブルの上にお盆を置くと、姉貴から『ピグマリオン』を取り上げた。
「それ、誰から借りたの?」
巡音さんから貸してもらったとは言いづらいなあ。というか、なんで姉貴は巡音さんとの友達づきあいに否定的なんだよ。
「……クラスの友達」
「『マイ・フェア・レイディ』の原作でしょ? あんたにしちゃ珍しい選択ね」
一々細かい突っ込み入れなくてもいいじゃないか。
「来年四月の公演の候補にどうかと思ってんだよ。顧問は文学をやれってうるさいし、グミヤは明るい奴がいいって言うし」
「来年か……考えてみれば、もう十一月なのよね。時間の経過が早いわ」
突然浸りだす姉貴。どうしたんだ急に。……いいや、放っておこうっと。
俺はテーブルの上に、うどんの入ったどんぶりと箸を並べた。とっとと飯にして、食べ終わったら部屋へ引っ込もう。
「いただきます」
「いただきます……あ、そうだ姉貴。回覧板来てるよ」
俺は、サイドボードの上の回覧板を指差した。
「じゃ、後でチェックしておかなくちゃ」
「それと、岩田さんが言うには、最近この辺を不審者がうろついているんだって」
「不審者? 物騒な話ね」
それに関しては同意見だ。
「姉貴、気をつけてくれよ。時々帰りが遅くなるだろ」
「ん~、でも、仕事だしねえ……。向こうに泊まってもいいんだけど、あんたを一人にするのも、それはそれで心配だし」
いや、俺としては泊まってくれた方が安心なんだが。一晩二晩くらい一人でも大丈夫だよ。
「俺より姉貴の方が危ないだろ」
「念のために護身グッズは持ち歩いてるわよ。用心に越したことは無いしね」
防犯ブザーとかかな? 姉貴も、一応考えてはいるらしい。
「……ところでレン、あんたに『ピグマリオン』を貸してくれたのって、もしかしてリンちゃん?」
姉貴はいきなり、そんなことを訊いて来た。俺は呆気に取られてその場に固まる。……なんでわかった!?
「やっぱりそうだったのね」
姉貴は俺の前で納得して頷いている。ごまかすのは無理そうだったので、俺も認めることにした。
「……そうだよ。なんでわかった」
「最近の一般的な高校生は、こんな本読まないのよ。それにその本、結構お値段が張るでしょ? そうなると、そんな本を持っているのはリンちゃんぐらいじゃないかなって」
どうして本を見ただけで、そこまで推測が働くんだろうなあ。俺は姉貴を睨んだが、姉貴は涼しい表情をしている。ああ面白くない。
「クオや初音さんから貸してもらったとは思わなかったの?」
「初音さんは本を借してもらえるほど、あんた仲良くないでしょ? ミクオ君は、そういう本を買うお金があるのなら、ゲームかDVDに使うでしょうし」
全くもってそのとおりなんだが……。見透かされてるというのが実にいらつく。
「あのさ姉貴、俺はグミヤから四月の新入生歓迎公演の演目決めを任されてるんだよ。で、顧問が文学文学ってうるさいから、顧問を黙らせるようなしっかりした文学作品がいるわけ。そうなると、詳しい人に相談に乗ってもらうのが一番だろ。俺の周りにはそういう相談ができるような人が、巡音さんしかいないの」
「私は?」
姉貴は自分ってものがわかってないんだろうか。
「姉貴に相談したらろくでもない回答が来るだろ。何薦める気だよ」
「そうねえ……『機織りたち』とか?」
タイトルは普通に聞こえるが……どうせろくな話じゃないだろう。
「念のため訊くけど……どういう話?」
「搾取される一方で、働いても働いても貧しくなるばかりということに怒った労働者たちが、暴動を起こして……」
「もういい……訊いた俺がバカだった」
プロレタリア文学って奴なのかもしれないが、新入生歓迎公演でそんな誤解されそうな話やれるか。
「ちゃんとした話よ?」
「暗い話は止めてくれってグミヤに言われてんだよっ!」
「あら……それは残念ね」
ちっとも残念じゃない。そんなのやるぐらいなら、『桜の園』やる方がまだマシだ。
「で、『ピグマリオン』にするわけ?」
「第一候補ってとこ。まだ途中だけど、結構面白いよ、これ」
教授がかなり嫌な奴だったりするけど。まあいいか、これぐらいなら。
「ふーん、まあ、『マイ・フェア・レイディ』の原作だしねえ」
「姉貴がその映画好きってのが、俺としては実に意外なんだけど」
俺としては素直な感想を口にしただけなのだが、姉貴はむっとしたようだった。
「あんたにはわかんないでしょうけど、この時代の映画はファッションを語る上において外せないのよ。マイコ先生もいつも言っているわ。六十年代こそがファッションにおいて黄金期だって」
ちなみにマイコ先生というのは、姉貴を雇っているファッションデザイナーで、まあ、なんていうか……『RENT』のエンジェルのような人だ。姉貴に言わせると、エンジェルはドラッグクイーンで、マイコ先生はトランスヴェスタイトなんだそうだが。俺にはそういう細かい違いまではよくわからん。
「それはさておき、あんた、ヒギンズ教授と同じ轍踏まないようにしなさいよ」
姉貴はなんでいちいち俺に喧嘩売らないと気が済まないんだ……。
「どういう意味だよ」
「ヒギンズ教授とあんたって、ちょっと似てると思うのよね」
「俺はこんなに性格悪くないっ!」
それにこの人、重度のマザコンじゃないか。姉貴は俺がマザコンだとでも言いたいのかよ。
その姉貴は、何故か俺の前でため息をついている。
「自分がわかってないって、怖いわねえ」
それは俺が姉貴に言いたい台詞だよ。全く。
「まあ……とにかく、ガラテアかイライザかわからないけど、逃げられないようにしなさい。……やっぱりイライザかしら」
意味不明な話をしないでくれよ。なんで姉貴はこうなんだ。
食事が終わったので、俺は食器を下げると、『ピグマリオン』をつかんで自分の部屋に戻った。続きを読みたかったし、これ以上姉貴と話を続けていると、さすがの俺もキレそうだったから。食事当番は俺だから、後片付けは姉貴の仕事だ。
部屋のベッドに寝転がって、俺は『ピグマリオン』の続きを読んだ。半分ぐらいは読んでいたから、全部読みきるのにそんなに時間はかからなかった。
読み終えると俺は本を傍らに置き、天井を眺めた。……映画とラスト、違うのか。映画だと、一度飛び出したイライザは教授のところに帰って来る。でも原作では帰って来ない。教授が「イライザはフレディと結婚する」と言うところで終わっている。なんだか……すっきりしない終わり方だ。そりゃ、ヒギンズ教授は性格悪いしマザコンだし、あまり一緒にいて楽しい人とは言えないだろうが……。だからってフレディみたいなバカっぽい役立たず選ばなくても。
とにかく、この原作の結末は俺にはひどく不満だった。どうして不満に感じるのかはよくわからなかったけれど、嫌なものは嫌なんだ。
……一人で考えていても埒が明かないな。明日学校で巡音さんと話をしてみよう。
コメント0
関連動画0
ブクマつながり
もっと見る姉貴に『エンダーのゲーム』を渡して、俺は学校へ向かった。学校に着いて教室に入ると、いつものように自分の席で本を読んでいる、巡音さんの姿が目に入った。……どうしたもんかなあ。向こうは本に集中しているので、俺のことには気づいてない。けど、ここで声をかけないのは、それはそれで「昨日のことを気にしてます」...
アナザー:ロミオとシンデレラ 第二十三話【真実はいつも少し苦い】後編
目白皐月
四人で遊園地に行った翌朝、俺は落ち着かない気分で目覚めた。今日は月曜だ……。そういや、『憂鬱な月曜日』って歌、あったなあ。断っとくけど、死にたいわけじゃないぞ。
ベッドから抜け出して一階に下りる。洗面所に行って顔を洗い、居間へ行く。台所では、姉貴が朝食の支度をしていた。
「おはよう、姉貴」
「お...アナザー:ロミオとシンデレラ 第二十三話【真実はいつも少し苦い】前編
目白皐月
「巡音さん、ちょっといい?」
水曜日の放課後、俺は巡音さんにそう声をかけた。
「……鏡音君、どうしたの?」
とりあえず、また以前のように話せるようにはなっている。……これでいいんだよ、これで。……多分ね。
「実はちょっと相談に乗ってほしいことがあって」
「え……わたしに?」
心底驚いたといった...アナザー:ロミオとシンデレラ 第二十四話【ショウほど素敵な商売はない】
目白皐月
普段より早く自宅を出たので、当然、学校に着いた時間も早かった。とはいえ、もう開いているので、教室に入って自分の席に着く。……まだ誰も来ていない。
わたしはがらんとした教室を見回した。……鏡音君の席が目に入る。途端、また、昨日のことを思い出してしまった。ああもう、いい加減にしないと。鏡音君と顔をあ...ロミオとシンデレラ 第二十六話【アングルド・ロード】後編
目白皐月
注意書き
これは、拙作『ロミオとシンデレラ』の外伝です。
レンの姉、メイコの視点で、外伝その八【あの子はカモメ】外伝その九【突然の連絡】の続きです。
この作品に関しては、『アナザー:ロミオとシンデレラ』を第二十三話【真実はいつも少し苦い】まで読んでから、読むことを推奨します。
【シンデレラ...ロミオとシンデレラ 外伝その十【シンデレラごっこ】前編
目白皐月
「せんぱーい、幾らなんでも悪ふざけが過ぎますよ! あたし、一瞬本気にしたじゃないですか!」
ラブホテルを出て目的地に向かう最中、ハクちゃんはそんな文句を私に言っていた。
「あっはっは、あの時のハクちゃんの顔、見ものだったわ」
「もう、先輩って悪趣味!」
「心配しなくても、私はストレートだってば」
...ロミオとシンデレラ 外伝その十【シンデレラごっこ】後編
目白皐月
クリップボードにコピーしました
ご意見・ご感想