次の日、あたしが起きて下の部屋に行くと、カイトはもういなかった。毛布がソファの上にちゃんと畳んで置いてあって、置手紙が添えられている。あたしはそれを読んだ。
「マイト兄さん、昨日はいきなり押しかけた上、お酒を飲んで愚痴ばっかり言っちゃってごめんなさい」か。……だからあたしはもうマイト兄さんじゃないってば。
とはいえ、こうやって手紙を残していくあたり、カイトも前とは少しずつ、変わって来ているのかな。あたしがこんなになって戻って来てからというもの、カイトは露骨にあたしを避けていたのよね。もちろん、めーちゃんのこともあるんだろうけど。
あたしは朝食を食べ、ざっとその辺りを片付けて、みんなが来るのを待っていた。その時、鳴る携帯。取ってみるとめーちゃんだ。
「めーちゃん?」
「あ、朝早くにすいません、マイコ先生。実はちょっと話しておきたいことがあって……早めにうかがっても構いませんか?」
多分、昨日カイトが話していた内容に関わりがあるんだろうな。その時、あたしはそう思った。
「いいわよ、別に」
「ありがとうございました、助かります」
通話が切れる。めーちゃん、もしかして心配してるのかな。レン君がカイトに邪険にした件で、あたしが怒ってるんじゃないかって。別にその程度のことで怒ったりしないけどね。めーちゃんは腕のいいパタンナーで、あたしともうまが合う。事務的な仕事も一通りこなせるし、あたしにとっては大事な人材だ。
やがてめーちゃんがやってきた。
「先生、おはようございます」
「おはよう、めーちゃん。話って何?」
あたしは紅茶を淹れる。何か飲むものがあった方が、めーちゃんも話しやすいだろう。
「ありがとうございます。実は昨日、レンが外でカイト君にばったり会ったとかで」
あ~、やっぱりその話なのね。
「その話だったらカイトから聞いたわ。あのバカ、デート中のレン君に話しかけて、邪険にされたんだって?」
めーちゃんはびっくりして二、三度瞬きした。
「そうですけど……」
「昨日カイトが家に来て、そこら辺を話してくれたのよ。デート中の多感な男の子の邪魔するもんじゃないって、言っておいたわ」
だからめーちゃんは心配しなくていいのに。けど、めーちゃんは心配そうに眉を寄せた。
「あの……そのことなんですけど」
めーちゃんがこんな顔をするなんて珍しい。
「なに?」
「レンの彼女なんですけど……巡音リンちゃんっていって、ハクちゃんの妹なんです」
「あら、レン君はめーちゃんの後輩の妹とつきあってるの」
ハクちゃんの妹か……それなら容姿もいいでしょうね。カイトも可愛い子って言ってたし。一度見てみたいかも。
「ええ。でも、リンちゃんの家というか、ハクちゃんの家というか、とにかくものすごく厳しくて、異性との交際は認めてもらってないんです。レンがカイト君を前にして過剰反応をしたのは、それが関係しているんですよ」
ハクちゃんの家についての話は、ハクちゃん本人から多少聞いている。確かに、まともとは言いがたい環境だった。あたしが言うのもなんだけど。
「要するに、レン君はお姫様を守ろうとしたってことね」
「……ええ」
ふーん。レン君の方の事情はわかった。後はカイトか……。
「うーん、事情はわかったし、あたしは気にしないけど、カイトがねえ……ひどく落ち込んじゃってて」
ごめん、めーちゃん。あたしも姉なの。
「あたし昨日、カイトにデートの邪魔なんかする方が悪いって言っちゃったの。そしたら、自分の空気の読めなさを責め出してしまって」
ま、これは嘘じゃないわ。実際、カイトはものすごく落ち込んでいた。
「えーとあの、何でしたらレンには謝らせ……」
「それはいいわよ。レン君にはレン君なりの事情があったわけだし、無理に謝らせるのは良くないわ。カイトもデート中の人間の邪魔はするもんじゃないって、わかったでしょうし。ただカイトって、ちょっと気持ちの切り替えの下手なところがあるのよね。だからめーちゃん、今度の日曜、カイトを何か楽しそうな映画にでも連れてってあげてくれない? 一人にしておくと、それこそ際限なく沈んじゃいそうなのよね、あの子」
めーちゃんは、ものすごくびっくりした表情になった。あたしにこんなことを言われるとは、思ってなかったらしい。
「一日遊んだら、カイトも吹っ切れると思うのよ」
「それはそうかもしれませんけど、私でいいんですか?」
めーちゃんは、カイトの気持ちには全く気がついていない。カイトが消極的というのもあるんだけど、めーちゃんて、他人のことにはすごく気が回るのに、自分のこととなると鈍かったりするのよね。
「めーちゃんがいいわよ。ついでにレン君のフォローもしてあげて。あたしだけより、めーちゃんからも言ってあげた方が、効果あると思う」
「……わかりました。誘ってみます」
「じゃ、後でカイトの携帯の番号とメールアドレス渡すわね」
めーちゃんからいきなり電話かメールがあったら……カイト、多分、ひっくり返るわね。嬉しさで気絶したりして。
ま、ここまではやっといてあげたわよ。後は自分でなんとかしなさい。
「お願いします。あ、先生。まだ話終わってないんですよ。問題はさっきのだけじゃないんです。昨日レンから聞いたんですけど、先生の従弟のアカイ君、ハクちゃんのお姉さんを知ってるんだそうです」
「え?」
さすがにあたしはびっくりした。アカイが、ハクちゃんのお姉さんを知ってる? ハクちゃんのお姉さんって、前にハクちゃんが話していた、異常なまでに完璧すぎるって人よね? ハクちゃんのコンプレックスの源でもある。そんな相手が、アカイと話があうとは思えないんだけど。
「そんな話聞いたことないけど……」
「お姉さんを直接知ってるんじゃなくて、お姉さんの婚約者と懇意なんだそうです。神威さんっていう人だそうですけど」
「神威さん……ああ、帯人のライブに来てた人ね。アカイがチケットをあげたって言ってたわ」
上の弟の帯人は、アカイの兄のカゲイと一緒に、ブラックバンデージというヴィジュアル系バンドをやっている。時々ライブをするんだけど、何しろそんなに有名でもないから、常にチケットがはけるとは限らない。そういうわけで、身内は何とかチケットをもらってくれる相手を探すのだった。
おっと、話がずれた。とにかくその時に、その神威さんとやらがアカイと喋っているのをあたしも見かけた。背の高い男前で、いかにも育ちが良さそうな雰囲気を漂わせた人だったわね。あの人がハクちゃんのお姉さんの婚約者ねえ……。
「レンが警戒したのには、その辺りの背景も関係してて」
ふーむ、噂が広まるのを恐れたのか。
「レンはリンちゃんの名前はカイト君の前では口にしてないって、言ってました。でも、ハクちゃんの方が……」
「うーん……それはまずいわねえ……」
折角最近、いい感じになってきているのに。あたしとしても、ややこしいことになるのはごめんだ。
「じゃあ、ここにいる間、ハクちゃんには芸名を名乗ってもらうことにしますか。あたしだって芸名で仕事してるわけだしね」
デザイナーの場合は芸名じゃなくて筆名かもしれないけど、細かいことはどうでもいい。
「それがいいかもしれないですね」
結論が出た時だった。ドアが開く音がして、話題の張本人が入ってきた。
「おはようございます……あ、先輩。今日は早いんですね」
「おはよう、ハクちゃん」
「おはよう、噂すれば影ってね」
ハクちゃんはおずおずと部屋の中に入ってきた。ここでバイトを始めてもう三ヶ月以上――といっても毎日来るわけじゃないから、実質的な日数はずっと少ない――なんだけど、まだ慣れていないようね。
「マイコ先生、何が噂すれば影なんですか?」
「今ちょうど、めーちゃんとハクちゃんの話をしてたところなのよ」
「……あたしの話?」
首を傾げるハクちゃん。あたしとめーちゃんは、かわるがわる今の話をした。ハクちゃんの顔が、思い切り引きつる。
「そんなあ! ここに姉さんを知ってる人がいるなんて!」
「心配しなくても、アカイ君は写真見ただけみたいだから。直接の知り合いじゃないし、ハクちゃんはお姉さんとは全然似てないし、それにアカイ君はもうじき就職するから、そしたら忙しくなってここには来れなくなるだろうし」
いや……それはどうかな? 恋心が暴走したりして。
「ハクちゃんの顔、その神威さんって人は知らないんでしょ? 芸名にしておけば大丈夫だって」
「それは……そうかもしれないです……わかりました、何か考えておきます」
そしてハクちゃんは、ここにいる間は「弱音ハク」と名乗ることになったのだった。さすがにその名前は無いんじゃないかと思ったけど、ハクちゃんが自分で決めたのだ。自分の現状を認識しておきたいからって。
ハクちゃんから、弱音が取れる日は来るのかな? 来てほしいと思う。
それにしても、あの神威さんがハクちゃんのお姉さんの婚約者なのか。ハクちゃんのお姉さんがどんな人なのかは、ハクちゃんから聞いている。そしてこれはハクちゃんには言ってないことだけど、あたしはハクちゃんのお姉さんが、なんでそうなってしまったのか、実を言うとちょっとだけわかる気がする。
あたしがまだ幼稚園に通っていた頃「お誕生日に着せ替え人形が欲しい」って言ったら、父さんも母さんも「あれは女の子の玩具。男のお前が遊ぶものじゃない」って言った。それでも欲しいって言ったら、父さんは「聞き分けのないことを言うな! この、女の腐ったような奴め!」と、ひどくあたしを叱った。
女の子のような真似をしたら怒られる。そう思ったあたしは、なるべく外で遊ぶようにした。仲良くしていた子におままごとに誘われても断った。可愛いものが大好きだったけど、周りには置かないようにもした。剣道を習っていたのも、それが理由。武道をやっていれば、女っぽいとは言われない。もっとも剣道は結構楽しかったけど。
でも、高校生の頃、もう耐えられないって思った。そして、昔の夢……魔法使いのように、綺麗なドレスを出してみせること。それを叶えたいと思ったあたしは美大を受け、デザイナーになった。外国への留学している間に、トランスであることを周りに公言できるようになり、着たい服を着れるようにもなった。父とは絶縁してしまったけど、これでよかったって思ってる、もう自分を偽らなくて済むから。
多分、昔のあたしが必死になって男っぽく振舞おうとしたように、ハクちゃんのお姉さんも「怒られないで済むよう」必死になっていい子になろうとしたんだろう。なろうとしたというより、なっちゃったというべきだろうか。でもそれには、きっとすごい負担がかかってる。
ハクちゃんのお姉さんは、いつまでそれに耐えられるんだろう。あたしはこういう人間だから、同類――心の性別と身体の性別が一致しない人――の知人は多い。カミングアウトや性転換手術をするしないはさておき、どこかで「自分は心と身体の性別が違うんだ」とはっきり認識して、折り合いをつけることを学ばないと、厄介なことになってしまう。永遠に自分をごまかし続けるのなんて、ほぼ不可能に近い。そして、限界まで溜め込んだエネルギーの爆発ほど、厄介なものはない。
……といっても、あたしは直接ハクちゃんのお姉さんを知ってるわけじゃないから、何かしてあげられることはない。ここで懸念するぐらいで。アカイを通じて声をかけてみるって手もあるけど、今、あたしはハクちゃんの方の面倒を見ている。両方の面倒を見るのは不可能だ。
ハクちゃんは、難しいタイプの子だ。下手にお姉さんを擁護しようものなら、きっと怒り狂うだろう。
そして多分ハクちゃんは、お姉さんには悩みや妬みなんて感情は、存在しないと思っている。なんでもできる人が何を悩むの? 優れている人がどうして劣っている人を妬むの? ハクちゃんならそう言うだろう。これって、誰にでもわかるような類の話じゃないのよね。あたしが弟たちを羨んでいたといっても、弟たちからすればさっぱり理解できないのと同じように。実際、あたしは弟たちが羨ましかった。弟たちは何の疑問も憶えずに、自分の持って生まれた性別を受け入れることができていたから。
なんだか、我ながら面倒なことに首を突っ込んでしまったなと思う。けど、ハクちゃんを見た時、いいなと思ったのだ。この子は、あたしにインスピレーションを与えてくれる。だから、「フィッティングモデルになってくれ」って頼んだわけだけど。
なんならステージも歩いてもらおうかなあ……ハクちゃんは丈があるしスタイルがいいから、きっと映える。一人ぐらいなら、あたしのごり押しでなんとかなるはずだ。ま、それにはハクちゃんに、もう少し落ち着いてもらわないとならないんだけどね。
とにかく、やれることからやってかないと。全てはまだこれから。
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