なんて素敵な方かしら。
彫像のように美しいお顔。優雅な身のこなし。慈しみ深き眼差し。
こんな男性にワルツを誘われれば、どんな女の子の心も蕩けてしまう。
今まさにその人に、ダンスの相手を請われているなんて。
ああ、私はなんて幸運な女ナノデショウ。
夢見る目をした二人の男女。そこにいる誰もがあつらえられたようだと思った。
――お相手、よろしいだろうか?
男の言葉に、女は頷く。
手に手を取り合い、ワルツが始まる。
男は一国の王子。舞台は王子の花嫁選びの会場と噂される、建国記念の舞踏会。すべての者が王子の動向に注目していた。
王子の助けを借りて踊るのは、白いドレスに身を包んだ、輝くばかりの美女。その年の頃はまだ少女と言って差し支えのないほど若い。
音楽に合わせ、ドレスがくるりとひるがえる。そのたびに女の髪飾りがきらきらと光った。
恋に輝く王子の瞳を見て、未来の王妃は決まったと、誰もが信じた。
時計台の針は進む。
まだ十二時を指してはいない。
ズウゥゥン、と重い音が響き、テーブルの上のグラス二つがカタカタと震えた。
男は気にも留めず、その中に琥珀色の液体をなみなみと注ぐ。
「飲みたまえ。我が国の酒もそう悪くはないぞ。カムイ殿」
男はにこやかにグラスを差し出した。
神威は視線をさまよわせたが、すぐにそれを受け取った。しかし、口をつけようとはしない。
「どうした。こんなに騒がしくては、飲む気も失せるかな?」
言っている側から、また大砲の弾が着弾し、地が揺れた。
今のは少し近かったな、と男は天幕の外を覗いた。
銃声は絶え間無く響いている。
「そうではなく、今も戦っている者がいると言うのに……」
「不謹慎だ、と? 真面目だねぇ。構わないさ。もうじき日が暮れる。暗くなれば撃ち合いも終わりだ」
そう言って、男は酒を呷る。
「……道理ではあるがな」
神威は仕方なくグラスに口を付けた。ほんの気持ちばかり含み、覚悟を決めて飲み下す。一口の酒は喉を焼き、胸を熱くさせた。
実を言うと、この国の酒はあまり好きでない。同じ酒を、向かい合って座る男は水のように平然と飲み干している。その様子を見るだけで、神威は胸やけのする思いがした。
「それに、三日後には休戦に入るんだ」
突然の重大な発言に、神威は目を見開いて男を見る。平素と変わらず、底の知れない笑みを浮かべている。
「ああ、まだ言いふらさないでくれよ。兵たちに気を抜かれては困るから」
「どれほどの間なのだ? 休戦というのは」
「とりあえず半年程度に決まったのだけれど、我が王は戦争に辟易していて、停戦交渉したがっているとか聞くし、もしかしたら終戦になるかもしれない」
「曖昧だな」
「まあ、直接伺ったわけではないからね。息子相手にそんな気弱は言わないよ、さすがに」
男はこの国の王子、それも皇太子だった。
王の出陣していないこの戦で、その一人息子である若き王子は総大将を任されている。
戦略、戦術にあまり興味を持たない彼は大将としては飾りであったが、飾りとしての役割は十二分に果たしていた。
大将でありながら最前線にたびたび赴き、自らも剣を握る。
若く勇敢な王子は、兵士たちの絶大な支持を得ていた。苦戦を強いられようとも、彼が戦場にいるかぎり士気は下がらない、とまで言われている。
そういった王子の功もあり、当初、旗色の悪かったものの、持ち直し、ようやく攻勢に転じようとしているというのに。
「こちらの敗北、ということか」
「このまま終わればまずそうなるな。外交次第で領地の一部は還ってくるかもしれないが……勿体ない話ではあるね。叔父上は笑いが止まらないだろうよ」
この戦争の対戦国は、王子の母方の実家である、この国に隣接した大公国だった。王は妃の弟と、王子は叔父と戦っていることになる。
身内と戦うとはどういう気分だろうかと思うが、神威の見る限り、王子はあまり気に病んでいる様子はない。
「戦争が終わったら、また旅に出るのかい?」
王子の問いに、ああ、と短く答える。
神威は傭兵として、各国を転々としてきた。国外に出たことがなく、外国に深い関心があるのだろう。訪れた国の様子や体験話を幾度も王子に請われたこともある。
「何処へ行くんだ?」
「……まだ何も考えておらぬ。戦場では、目の前のことしか考えられぬ性分故」
傭兵の鑑のような人だね、と王子は微笑んだ。
「でも残念だな。君の素晴らしい剣術が見られなくなるのは。手本にしていたのに」
「そなたは、これ以上強くなる必要はなかろう」
王子は十分強かった。……強すぎるほどだ。
神威は銃にはさほど詳しくないが、剣や槍には明るい。彼の見立てでは、王子の剣の腕は並み以上、と言ったところか。中々の使い手ではあるが、一流と言うにはほど遠い。だが、戦場では実力以上の戦果を上げていた。
その理由は見ていてわかった。
迷いがないのだ。
どこを切れば手足が動かなくなり、どの場所を開けば死に至る出血となるかを心得、そこを狙ってためらい無く剣を振り下ろす。
人を殺すこと対する戸惑いがまるで感じられなかった。
ただの一兵であれば高い評価を得ていただろう。しかし、彼は軍の総帥。国を背負って立つ者。そんな男がそのような剣を振るっていることに、神威は不吉しか覚えなかった。
「難しそうな顔をしているねぇ」
王子に指摘され、神威は思考を止めた。
返す言葉が見つからず、沈黙で答える。我ながら愛想の無いことだ。
酒をもう一口含み、ばつの悪さを誤魔化す。強すぎる酒精が喉を下っていった。
王子は追及してはこなかった。
「伝令でございます」と天幕の外から声がした。
「入りなさい」
王子から許可を得ると、天幕の入り口が捲れ上がり、男が入ってきた。
頭を垂れる男に、王子は問いかけた。
「北方公の例の件についてかい?」
「左様でございます」
そうか、と頷くと、王子は神威に目配せした。神威は無言で席を立つ。従者待遇とは言え、傭兵風情が同席を許される話は少なかった。
王子に一礼を送り、神威は幕屋を後にした。
自分に宛がわれた幕屋に戻りながら、神威は先程聞いた話を思い返した。
休戦……。
慌ただしい中で忘れかけていたが、もうすぐ冬が訪れる。
先の休戦が明け、戦が始まったのは初夏。両軍とも、冬の備えはないのだろう。考えてみれば予想できそうなことだが、失念していた。
そうなれば、次に考えるのは己の身の振り方だった。戦がなければ、神威のような傭兵は用無しになる。
この度の戦では、王子に取り立てられたこともあり、懐はかなり潤っている。しばらくのんびりと旅にでも出ようか。
たまには故郷に帰ってみるのも悪くないかもしれない。故郷に残した妹の顔が思い浮かぶ。別れた時、五つだった妹も、そろそろ嫁入りしてもおかしくない娘になっているはずだ。
悪くはない。
だが、何処へ行こうと、長く留まることはないのだろう。
穏やかに過ごすことなどできぬ。己は硝煙と泥と赤錆の臭いのする場所でしか生きられない男なのだから。
自分も王子のことを言えたものではないなと、神威は小さく苦笑した。
轟音が鼓膜を揺さぶった。
爆発音。大砲など比較にならないくらい近い。
音の方に顔を向け、青ざめた。煙を吐いていたのは、先程までいた王子の天幕。
神威はざわめく兵たちの間を摺り抜け、天幕の中に飛び込んだ。
中はまだ煙が満ちており、ただでさえ一寸先も定かでないが、煙が涙腺を刺激するので目を開けていることができない。
耳を澄ますと、物音に混じり、咳が聞こえた。呼気の音からして王子だ。
袖で口許を覆い、辺りの気配を探りながら、そちらに近付いた。
座り込んでいるのか王子は体勢を低くしていた。傍らに跪き、お怪我は? と短く尋ねる。
数度の咳払いの後、すぐに返答があった。
「……僕は平気だ」
呼吸は乱れていたが、声に弱った様子はない。取り敢えず安堵する。
敵の気配はないが、視界の利かない場所にいては護衛もしづらい。煙も吸った様子もある、ひとまず外に出た方がよかろうと、王子の腕と思しき箇所を掴んだ。
――濡れた感触。
傷に触れたかと、反射的に手を離した。
「……ああ、大丈夫だ。私のじゃない」
何のことかと考えている内に、王子は側を離れ、ナイフか何かでテントを切り裂き、煙を逃がし始めた。
換気が進むと、硝煙に隠されていた強烈な血の臭いがあらわになる。
「さっきの伝令役……どうも曲者だったようだ。
……参ったよ。爆弾を使ってくるとは思わなかった」
視界が晴れてくると、王子の姿がはっきりと見える。頭から血を被ったような有様だ。しかし、体を庇う仕種は見えない。
となれば、この血は怪我によるものでなく、他人のものか。
具体的に言えば、この男の。
神威は足元を見下ろす。暗殺者の骸は存外側にあった。
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