少女が少年と出会ったのは、薄暗い部屋の中だった。
<魔法の鏡の物語>
静かな世界の中で、私はぼんやりと天井を見詰める。ここには窓や電球といったものがなくて、明かりとして機能しているのは部屋の壁と壁の隙間から漏れてくる光だけだった。
私が横たわっているのは狭い部屋。ううん、違う。本当はここは、部屋と呼ぶのも躊躇われるような、小さな物置。お父さんが「保険」に持っていた家の一軒の、屋根裏部屋。ここだけ時が止まってしまったかのような場所。
いろんなものが山のように積まれている隅っこの方で、水道管から漏れた水が静かに時を刻んでいる。静かに、静かに。
ここは寒くて、暗くて、狭くて…でもそんな不満を言ったってどうにもならない。それに大体、もし綺麗な広い家を貰えたとしたって、今のこの状況じゃ―――…
―――だだだだだっ!
「っ!」
不意に壁越しに響いた銃声に、反射的に身を竦める。あれは外の世界の音で、しかも随分遠くでのことのようだから、私がここで縮こまったって意味がないのは分かっているんだけれど…それでも怖い。怖くて堪らない。
少しでも安心したくて、掛けた布団を体に強く巻き付ける。
今の世界には怖いものが多すぎて、どうしたらいいのか分からない。私一人じゃどうしたって打ち勝てない―――どうしたら、この悪夢は終わってくれるんだろう。
かた、と腕が震えるのと共に、微かに鼻孔を掠める焦げた臭い。どこかでまた火が出たんだろうか。
「…は、」
乾いた唇から掠れた息が漏れた。
火は怖い。いつか、この場所だって焼かれてしまうかもしれない。昔住んでいたあの家と同じ。あの怖い兵士たちが燃やした、私達の生まれた家と同じ。火は怖い。お母さんも宝物も、全部灰にしてしまった。
私だって、お父さんに連れ出して貰わなければあそこで死んでいたかもしれない。
『リン、止まるな!』
『でも、まだ中にお母さんが!』
『っ…振り返るんじゃない…!』
叫んで、お父さんは私を抱き抱えてその場所を離れた。
皮肉なことに、病気がちな私にとって、あんなに長い距離を移動したのは初めてだった。色々なものも、沢山の人も目新しかった。空は青くて綺麗で、空気も澄んでいて、私は何も知らなかったんだな、と強く感じた。
だけど、その中には私やお父さんを狙う誰かがいる。
お母さんを死なせた人がいる。
それがとても怖かった。
布団の中で体を屈めて、そっと足に触れてみる。神経が麻痺、とかよくわからないけれど、ある日から急に動かなくなった私の足。…多分もう、この足が治ることはないんだろう。今までも治らなかったんだから、治療も出来なければ栄養も取れない今の状況で治る筈がない。
だから今の私は一人でここで横になっていることしかできない。
「必ず迎えに来るから」。
そう言って行ってしまったお父さんも、あれから一度も帰ってこない。
…捨てられちゃったのかな。
ぼんやり、空腹のせいで回らない頭を使って考える。
辛いけれど、それならまだいいと思う。置いていかれたのは悲しいけど、それでお父さんが少しでも楽になるなら…まあ、仕方ないもの。まだ納得できる。
もしかしたら、国外に脱出出来ていたりするのかも。そうなら、満足に動けない私を置いていくというのは正しい判断だったと思う。私を連れていたら動きも大分制限されてしまうし、目立ってしまうかもしれない。
簡単に浮かんでくる最悪の想像よりは―――ずっとましな未来だ。
少しでも気を緩めると、ぶわ、と暗雲のように噴き出してくる目を背けたくなるような想像。それに耐えられなくなって、私は発作的に口を開いた。
「…おとうさん…」
声にならない、殆ど吐息だけの声量で呟く。下手に声を出したら誰かに気付かれてしまうかもしれないから。
「…殺されて…ないよね……?」
ぽつりと口にしてしまってから、不意に怖くなる。
―――ダメだ、こんな縁起でもないことを口にしちゃ…!
私が口に出したせいでその未来が現実になってしまうような気がして、ぺたんこになった布団をぎゅっと掴む。
縋る相手はいない。頼る相手もいない。誰かの声を聞くことさえ殆ど無い。何食わぬ顔をした静けさだけが私の体にのし掛かって、心から熱を奪っていく。
一人は怖い。寂しい。段々自分が誰なのか分からなくなっていくようで、狂いそうな程不安になる。お父さんに最後に撫でてもらった頭の感覚を忘れないように、何度も何度も繰り返し思い出す。
けれど、それさえも少しずつ薄れていって…
目元まで布団を引き上げて、零れそうになる嗚咽を必死で押し殺す。
…私達は、何か悪い事をしたのかな?
こんなに辛い思いをする程の事、したのかな?
何も教えられないままこんなことになるなんて、納得できないよ。
心の中で考え付く限りに不満を並べ立てる。もしかしたら、どこかにいるかもしれない神様への懇願だったのかもしれない。
答えが返らない事なんて分かっている。
だけど、言わずにはいられなかった。
その時。
―――ことん。
不意に部屋に響いた重みのある音に、私は驚いて顔をあげた。
何かが落ちた音だ。でも、落としたのは、私じゃない。
偶然?動物?それとも…人?
反射的に体が強ばる。私はろくに動けない。だからもし見つかってしまえば、捕まるか殺されるか―――どちらにせよ、私の人生はそこで終わる。
血が引くような感覚と共にとても小さな部屋の中を見渡す。見慣れてしまった薄暗い灰色の世界は、既に音をなくしている。
「…?」
視界の中には動くものもない。いつもと変わらない、時が止まったような静けさのままだ。
…気のせい、かな?
一つ首をかしげてまた横になろうと体を動かし…
「…あ…?」
ふと視界の端に違和感を感じた。
仄かな明かりの中に、くすんだような世界の中に―――
「オレンジ…?」
何故か真新しいオレンジが一つ、ぽつん、と床に落ちていた。
少なくとも今朝までは無かったはず。なのにどうして?
ずり落ちるように低いベッドから体を起こし、腕の力を使えるだけ使ってそれが落ちている場所まで向かう。丁度日光が入る位置だったから、黒い布が掛かっている四角形の何かを背景に、橙色の色彩は目にも眩しく映った。
…この中から落ちたの?そんなに厚みも無いようだけど…
不審に思いながら、私は、その布を引き開けた。
ぶわ、と舞い上がる埃。今更気にすることでもないけれど、少し鼻から喉にかけていがらっぽくなるのが辛い。
ちか、と視界の真ん中で光が反射する。
古びた、でも精巧な細工を施された繊細な鏡。それが、布が覆い隠していたものの正体だった。
意外とくすみのない鏡面に興味を惹かれて、覗き込んで見る。
違和感。
映っているのは私、
―――じゃ、ない?
違和感の正体、それは、鏡の中から私を見返す「彼」としっかりと目が合った事に由来しているのだと気付いたのは、何秒か経った後のことだった。
鏡の中から当たり前のように私を見返したのは、金髪で青い目で、年の頃も私とそう違わないような少年だった。一瞬気付かなかったのも無理はないのかもしれない。何しろ、構成素材は私と大体一緒だったんだから。
ただ、その綺麗にとかされた髪や仕立てのいいシャツは、私の格好と比べるとなんだか浮き世離れしたもののように見えた。物語の中の王子様のような、現実にはいない天上人の空気、とでも言えばいいんだろうか。
驚いて固まる私の前で、彼も少しだけ目を見張る。
固まる時間。手の中のオレンジ。鏡の中の男の子。―――あり得ない。
でも、今現にこうして起きているわけで…
不思議な事態を理解しようとして頭が高速で回転する。
もしかして私は、おかしくなってしまったんだろうか。病と飢えと、孤独のせいで。
鏡の中のお友達なんて、夢見がちな子供の一人遊びの代名詞だ。
そう思うとなんだか不思議と澄んだ気分になって、私は改めて彼を見た。反射する鏡面に映る、私によく似た綺麗な姿を。
―――…それならそれでも良い、かな。
私が狂ってしまったのなら、それはそれでいい。正気でいたって良いことなんてないし、何より、手の中のしっかりした感触は確かにここにあるんだから。
それに、一人ぼっちはもう嫌だった。
幻覚だろうが幽霊だろうが別に問題ない。
そこにいてくれるのなら。
「…あなた…」
誰?という響きを含ませながら首を傾げる。
正直なところ、さっきの愚痴と同じで返事は期待していなかった。彼は結局は私の幻覚で、呼び掛けてみたところでその言葉は独り言として拡散するだけだろうと半ば確信していたから。
けれど、そんな私の反応に彼はもう一度目を見開き、おもむろに手元に黒い布を引き寄せた。
私の引き開けた鏡の覆いにも似た厚手の布地。彼はそれを無造作に羽織ってみせる。
「なにに見える?」
驚くほどに涼やかな声が、静かに部屋の空気を震わせた。
幻聴と言うには余りにも澄んだ鮮やかな声色。
―――幻覚じゃ、ない?
とりあえず返事をするために口を開こうとして―――そこで、意志が行動と結び付かないことに気付いた。
…答えられない。
今更だけれど、人の声を聞いたのが久しぶりすぎて、その懐かしさと暖かさに心の輪郭が緩んでいた事に気付く。ちょっとしたことで、頑張って保ってきたものが壊れてしまいそうな気がする。
それを防ごうとして胸を押さえ…ああ、私って馬鹿だ。体を押さえたところで心も押さえられる訳じゃないのに。
頭の中が一杯になってしまって、ろくに何かを考えることなんてできない。
ただ黙って彼を見詰める私は、彼からはどう見えたんだろう。
身動きさえ出来ないまま動きを止めた私に、少年は照れたように微笑んだ。硬質な印象が一気に和らいで、私の心の中で彼に対して身構えていた部分があっさりと崩れる。
困惑に表情を崩す私を面白そうに見遣ってから、彼は微かに勿体ぶった様子で首を傾げてみせた。私の真似をするような仕草、でも違和感も不快感も感じる事はない。
―――不思議。何だか、部屋が明るくなったような気がする。
疑問で溢れた私の頭の端の方で、そんな考えが浮かんだ。
きらきらと輝く埃だらけの部屋の中で、お世辞にも綺麗な格好だとは言えない私と、見るからに上品な格好をした彼という不釣り合いな二人が目線を合わせる。
黙ったままの私を包むように、良く通る声が静かに部屋を満たした。
「僕は魔法使いだよ。はじめまして、お嬢さん」
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ご意見・ご感想
翔破
コメントのお返し
初めましてのらさん、コメントして下さってありがとうございます。
確か、ピクシブでもピアプロでもフォローして下さってますよね?とても嬉しいです!
期待に応えられるかどうかは分からないのですが、もえたぎる(お好きな漢字で変換してください)思いを詰め込みたいと思います。
もし宜しければ、今後もちらちら見ていってやってください!
2011/07/04 22:23:43
日枝学
ご意見・ご感想
読みましいたよー! リンの恐れがとても自然に描かれていて良いですね。特に、
>硬質な印象が一気に和らいで、私の心の中で彼に対して身構えていた部分があっさりと崩れる。
↑
の所が個人的に好きです! リン恐れが溶けて変化する様子が自然に伝わりました。
執筆GJです!
2011/07/04 12:07:29
翔破
コメントありがとうございます!
なんだか具体的に褒められる事はあまりないので、頂いたコメントを見て一人で照れていました…。
日枝学さんの書かれる小説も読ませて頂きましたが、私の好みにぴったりだったので、そんな書き手さんから気に入ったと言って貰えるととても嬉しいです。精進します!
一応話の着地点は決まっているのですが、上手くいくかどうかは中の人達次第ですので、内心どうなるかと思いながら書いていたりします。
宜しければ今後もお暇な時などに立ち寄って頂けると幸いです。
2011/07/04 22:28:50