青年は納得できずにいた。
なぜ、船長はあの尼を船に乗せたのだろうか。
考えるほどに、憤りが胸を支配する。
船という乗り物は、女である。だから、船首にマリア像を讃えているし、船乗りは男ばかりなのだ。船に女が乗れば、船は嫉妬に燃えて、災難にある。それが、船乗りの常識である。
というのに、船長はなぜあの尼を船に乗せたのだろうか。
一抹の不安が、青年の胸をよぎった。
空が碧い。
潮風はひどく冷たい。
流氷と海鳥の鳴き声。
船は、真冬の海を突き進む。
少女は、寒さも忘れて、雄大な海原に見惚れた。
桜色の長い髪がなびいて踊る。
昨日はあいにくの雪だったが、今日は澄みきっている。温かい内陸で育った少女には、雪ですら海ですらはしゃぐに値するほど珍しい。というのに、眼前には詩でしか聴いたことのない流氷が舞っている。
少女は瞳をキラキラさせて、甲板のへりに噛り付いた。
「あーあ、そのまま落ちちまえばいいのに」
振り返ると、黄色い髪の青年が、嫌そうに少女を見ていた。
身長は160に満たないほどだろうか、男性にしてはずいぶんと小さい。髪を後ろで小さく結び、瞳は翡翠のように深みを帯びている。一見すればまるで劇団の少年役のような美男だが、体は傷跡にまみれていて、彼が海賊船の立派な副船長であることを物語っている。
「俺はお前を受け入れていないからな」
青年は鋭い瞳を少女に突き立てた。
脇には、曲剣と短刀が収まっていて、いつでもお前を殺せるぞと言わんばかりである。
「そう寂しいことをおっしゃらないでください」
詩人はそう言って、室内から現れた。ハープを片手に、
「これも何かの縁ですから。どうかお手柔らかにお願いします」
深々と一礼する。
「知らねえな。お前らとつるむつもりはない。次の港に着いたら、さっさと降りな」
青年は吐き捨てて、船室に消えていった。
詩人は苦笑を浮かべる。
「手練れというのは、いつ対峙しても、心が擦り減るものですね」
少女は首を傾げる。
「あの人は強いの?」
「ええ、強いですよ」
「そんなに?」
「ええ、とても強いです。瞳を見ればわかります。彼は人を殺す覚悟をちゃんと持っていますから」
少女はぶるぶると震える。
「大丈夫ですよ。本当にあなたを殺すつもりなら、とっくに切りかかっています。彼は立場をわきまえています。船長が決めたなら不服でも従う、それだけの志を持っています」
詩人は船室に向かって歩き出した。
「甲板は冷えますから、室内に戻りますよ」
少女はトコトコとついていく。
答えて二人は船室に消える。
もう誰もいない甲板で、心なしか歌声が聞こえた気がした。
それからの海と空は荒れに荒れた。海面は優に20メートルは乱高下した。
詩人や海賊達は平気だったが、少女はすっかり参ってしまった。
水さえ喉を通らず、布団にうずくまる。
嵐が去ったのは、3日後の夜のことだった。ようやく揺れが穏やかになり、少女はベッドから這い出る。
背中にくっつきそうなお腹を満たすため、詩人に連れられて食堂へと向かった。
窓辺から月明りが優しく差し込んだ。
大空がすっかり広さを取り戻している。
帆が軽快なステップを踏んでいる。
潮風は、心なしか。艶やかに、なまめかしく、淫らな愛を歌う。
「よお、お目覚めかい?」
食堂に入るなり、青年が嫌味を垂れた。
「元から小さいのに、もっと小さくなってるな」
わざとらしく嘲笑を浮かべた。けれど、よく見ると、少女は心ここにあらずという様子。不思議そうな表情を浮かべて、窓から外を見つめていた。
詩人は視線を辿った。誰もいない。
「どうしました?」
少女は外を見つめ続けた。
一分ほど経っただろうか、不意に零した。
きこえるの、ウタゴエ、そとから、きこえるの、じょせいの、ウタゴエ、アイを、うたってる。
「女性の歌声? 女はあんた以外乗っていないぞ?」
青年は理解できなかったが、詩人はことの深刻さに気付いて、瞳を丸くした。
「セイレーンです」
詩人の言葉を聞いて、青年もハッと惨事を察した。
それは船乗りにとっての悪魔。幻惑的で妖艶な声で歌い、男どもを魅了し、心を奪う。虜にされた男達は、誘われるように声の元に近づいていき、ついには海に飛び込んで溺れ死んでしまう。セイレーンの声に飲み込まれたら最後、その船はもう助からない。
青年は走り出た。詩人と少女も慌てて追いかける。
操舵室に飛び込むと、船員は虚ろな瞳で舵をとっている。窓から甲板を見れば、男どもは、ゾンビのように彷徨いながら、右の方へ向かっている。舵輪は取り舵一杯。
青年は迷うことなく船員を殴った。倒れた船員に代わって舵輪を握った。
「揺れるぞ! 掴まってろ!」
言うや否や、舵輪を面舵いっぱいに回した。
軋む音をたてながら、船体が少しずつ右に向き始める。
見れば、甲板の男どもは、少しずつ進む方向を変え始める。
だが、ウタゴエは思いの外大きく、次第に青年の瞳を曇らせていく。
「耐えろ……耐えろ耐えろ耐えろ!」
言う間に思考が揺らいでいく。感情が理性を喰らおうとしている。手が欲に負けかけている。外では、男どもが今にも海に飛び込んでしまいそうだった。
「ここは任せました。讃美歌をお願いします」
唐突に声がした。青年が振り返ると詩人だった。
彼は護身の短剣を取り出し、躊躇することなく、自身の、左手の甲に突き刺した。鮮血と共に刃は手のひらへ抜け出る。それから、短剣をぐっと引き抜き、血を振り払って鞘に戻した。滴る血にも目もくれず、外に走り出る。
青年も少女も、唖然とした。
詩人は甲板に出ると、男どものみぞおちを殴っていった。海に飛び込もうとしている者から順に気絶させていく。
少女はしばらく茫然と見つめたが、やがて、意を決して瞳を閉じた。
-Seigneur de ta beauté mon âme s'est éprise-
-Je veux te prodiguer mes parfums et mes fleurs-
-En les jetant pour toi sur l'aile de la brise-
-Je voudrais enflammer les cœurs-
澄み切った歌声だった。透き通るような、癒すような、奮い立てるような。言霊は幾重にも木霊して、幾重にも折り重なって、音と音が包みあって、何も聞こえなくなった。船の揺れる音も、服のすれる音も、ついにはウタゴエさえ。もう、何も聞こえなくなった。
それからどれほど経っただろうか、長い長い讃美歌が終わった頃、もうウタゴエは届かなくなっていた。
外には、倒れ伏した男どもと我に返った男ども、それと血を片手から垂れ流している男。死人は一人も出なかった。
青年は外に飛び出し、布を引き裂いて、詩人の左手を強く縛った。
「なにしてんだ!」
怒鳴り声に、詩人は微笑みを返す。
「これぐらいの痛みがありませんと、セイレーンの誘惑に負けてしまいますから」
「そうじゃなくて……!」
怒鳴りかけて、青年は言葉を改めた。
「助かった。礼を言う」
詩人はまた微笑んだ。
「それは彼女に言ってください。彼女があなたを守ってくれたのですから」
少女がこちらに向かっていた。
青年は少女に向き直り、バツが悪そうに頭を掻いた。
「その、ひどいことを言って悪かった。助かったよ、ありがとな……」
少女にきょとんとしてから、にーっと満面の笑みを浮かべた。
「どういたしまして!」
コメント0
関連動画0
オススメ作品
ミ「ふわぁぁ(あくび)。グミちゃ〜ん、おはよぉ……。あれ?グミちゃん?おーいグミちゃん?どこ行ったん……ん?置き手紙?と家の鍵?」
ミクちゃんへ
用事があるから先にミクちゃんの家に行ってます。朝ごはんもこっちで用意してるから、起きたらこっちにきてね。
GUMIより
ミ「用事?ってなんだろ。起こしてく...記憶の歌姫のページ(16歳×16th当日)
漆黒の王子
Ray of Miku
やり直したいと願って 彷徨うキミが咲く
痛む疵を庇っては 降り注ぐ
手探りで奇跡を型取る 思索から
咽び泣きを聴いていた
濁っていた 空却って眩しく
さて こうなると分かっていたの?
変わらないこの想い 涙で花が咲く
不可能な事が 血潮揺らしていた
停滞を撃てと 唯一 その声...Ray of Miku
飛弥タ息
雨のち晴れ ときどき くもり
雨音パラパラ 弾けたら
青空にお願い 目を開けたら幻
涙流す日も 笑う日も
気分屋の心 繋いでる
追いかけっこしても 届かない幻
ペパーミント レインボウ
あの声を聴けば 浮かんでくるよ
ペパーミント レインボウ
今日もあなたが 見せてくれる...Peppermint Rainbow/清水藍 with みくばんP(歌詞)
CBCラジオ『RADIO MIKU』
陰謀論者の脅しに屈するな
自称神の戯れ言に耳を貸すな
ヤツらの甘い言葉に惑わされるな
自分の正しさを武器にして
あらゆる愚行に異議を唱えても
結局自分も同じ穴のムジナだから
考え過ぎて馬鹿になってはいけない
所詮僕らは人間だ
硝子の破片を丁寧に拾っていては
誰だって生きづらいだろう...publicdomain
Kurosawa Satsuki
勘違いばかりしていたそんなのまぁなんでもいいや
今時の曲は好きじゃない今どきのことはわからない
若者ってひとくくりは好きじゃない
自分はみんなみたいにならないそんな意地だけ張って辿り着いた先は1人ただここにいた。
後ろにはなにもない。前ならえの先に
僕らなにができるんだい
教えてくれよ
誰も助けてく...境地
鈴宮ももこ
(Aメロ)
また今日も 気持ちウラハラ
帰りに 反省
その顔 前にしたなら
気持ちの逆 くちにしてる
なぜだろう? きみといるとね
素直に なれない
ホントは こんなんじゃない
ありのまんま 見せたいのに
(Bメロ)...「ありのまんまで恋したいッ」
裏方くろ子
クリップボードにコピーしました
ご意見・ご感想