幼い頃は、少し歳の離れた二人の兄が何よりの自慢だった。
かっこよくて何でもできて、バレンタインにはいつも鞄をいっぱいにして帰って来た。
二人の間に挟まって手を繋ぐと、どこまでだって歩いて行ける気がしていた。
ずっと三人一緒にいられるのだと、当然のように思っていたのだ。



――――――――――――――――



「大晦日くらい受験勉強はサボり」という父の一声で、この日の竹乃は早々にシャーペンを放り出していた。炬燵の中で、犬の尻尾を丸めたり引っ張ったりして遊ぶ。ここは暖かい。

「ワシの法衣どこや!?」
「アンタまだ着替えてへんのかいな!もう檀家さんみな来てはんで!?」
「なあ、これっていつ言うんやったっけ?鐘撞く前でええやんな?」
「講堂のストーブの灯油がなくなったて!誰か手ぇ空いてへん?」
「座布団足りてへん!ちょお取りに行ってくるわ!」
「はい後ろ熱いん通るで~」
「何でこれがここにあんねん!年賀状出しに行くならここのも持ってってて言うたやないの!」

そして、ここは静かだ。襖一枚隔てた向こうでは、両親をはじめとする寺の者が、除夜の鐘を撞きに来る人々の対応に追われている。しかしその喧騒とは無縁のこの居間は、まるで時の流れ方が違うみたいに穏やかだった。
テレビの特番にも飽きてしまった竹乃は、先程から頻りに愛犬を弄び、だらだらと時間を潰している。受験生を働かせるわけにはいかないといって寺の手伝いはさせてもらえないし、今日から泊まりに来るはずだった同い年の従姉妹は、数十キロ離れた地点で雪のために足止めを食らっているらしい。勉強は休むと決めたから、もう今日はやることがないのだ。
だから心ゆくまでのんびりしよう、と思いはするのだが。そうもいかない。
こんな手持無沙汰な状況でも気持ちがじりじりとして何だか落ち着かないのは、忙しくしている皆に申し訳ないという後ろめたさがあるからではない。
実は今夜、上の兄が帰って来るのだ。誰にも何も言わずに姿を消してから、5年振りに。

「柳二はどこ行ったんや?自分の仕事済んでんのかいな、あいつ」
「柳二さんなら外ですわ、お義父さん。大和さんが帰って来はんの、一番に見つけるんや言うて」
「はん。寺の仕事と大和とどっちが大事なんや、あのアホは」
「まあ無理もないわ。竹乃もやけど、柳二も大和にべったりやったからなあ。それよりあんた、袈裟はそれでええのん?」
「他の見つかれへんかってん」
「仏間に出しといてあげたやないの!今から着替え!」

柳二というのは、下の兄の名だ。どうやらもう外に出て、上の兄・大和を待っているらしい。
竹乃は、すっかり炬燵に温められた体に鞭打ち、ずるずるとそこから出た。途中で犬の尻尾を踏んで、ギャン、という声が炬燵の中からする。
「うわ、ごめん」と小さく謝ってから、竹乃は部屋の襖を開けた。
隣の和室では、柳二の妻である御幸が、参拝してくれた檀家に配るカイロと餅を袋に詰めていた。

「手伝おか、御幸さん」
「あら竹ちゃん。そおやなあ、ここはもうすぐ終わりそやからええわ。それより、うちの人に何か羽織るモン持ってってくれへん?あの人のことやから、きっと薄着のまんま出てるわ」
「分かった。おとんの半纏でええかな。門のとこ?」
「そお。頼むね」

近くに脱ぎ散らかされていた父の大きな半纏を持って、竹乃は寒い廊下へと出た。靴下を履いていても、足の裏が瞬間的に霜焼けになりそうな床の冷たさだった。ほ、と息を吐くと白い。

「経費節約や言うても、これはアカンやろ。家の中やで、一応……」

ぶつくさと呟きながら長い廊下を何度も折れ、盆を持った寺の者と何回かすれ違いながら、裏口を目指した。表の玄関から出たら、きっと今は目立ちすぎる。玄関は、境内からよく見えるところにあるのだ。
裏口まで来たところで、竹乃は、自分も薄着なことに気が付いた。
自分の部屋は、さっきいた居間よりもさらに奥だ。戻るのはかなり面倒臭い。

「柳兄も大人やし、こんな日に薄着で出えへんやろ」

外へ出る理由を自分でぶち壊しながら、竹乃は父の半纏を羽織った。線香の匂いがするのはいつものこと。
カララ、と引き戸を開けると、柳二の様子を見るまでもなく元の炬燵に戻りたい衝動に駆られたが、のぼせかけていた頭がすっきりしていいかもしれないと自分に言い聞かせ、外へ出る。
空は曇っていて月はない。星もない。寒さだけがそこにあって、幅をきかせていた。
歩きにくい砂利の上を、家と寺から漏れてくる灯りを頼りに進む。
やがてその灯りが途切れる頃、今度は前方にぼんやりと灯りが見える。山門の常夜燈だ。
門の脇の小戸から外へ出ると、そこに柳二がいた。

「なんや竹、起きたんか」

ガチガチと歯を鳴らしながら言った柳二は、冬用の作務衣にマフラーを巻いただけ。やはり、御幸の言うことは正しかったようだ。
「寝てへんわ、元々」と言いながら、竹乃も隣へ腰を下ろした。

「あったかそうなモン着てるやないか」
「柳兄は寒そうなかっこしてるな」
「ん、ちゅーかこれおとんのやんけ」
「御幸さんに、柳兄に持ってってて言われてんけど。ウチも寒かってん」
「寄越せや」
「嫌や。自分で取りに帰ったらどや」
「嫌や。その間に大和が帰って来たらどないすんねん」

暗い道の向こうを見据える柳二の目は、本気だった。
よくそこまで素直に待てるな、と竹乃は思う。
理由も知らせず出奔して、音信不通のまま5年。それがいきなり、「大晦日に帰る」と電話してきた。
父などは、「よりによって一番忙しい時に帰って来んでもええやろ!」と怒っていたが、竹乃の気持ちはそういうのとも少し違う。
正直に言うと、億劫だった。大和に会うのが。
帰って来なければいいのに、とさえ思う。
竹乃が中学1年生の時に大和が消えて、その時二十歳だった大和は、今ではもう竹乃のまったく知らない人物になっているような気がしていた。大和は、竹乃のことをどのくらい覚えているのだろうか。
怖いのかもしれない。昔のような優しい大和でなくなっていたら、と考えるのが。
何故出て行ったのか、聞かねばなるまい。そして何故今帰って来たのか、聞かねばなるまい。そう、誰かが。しかし竹乃は、それが自分でなくてもいいことを知っている。父か母か柳二か、そのうちの誰かが聞けばいいのだ。
家族の重苦しい部分には、なるべく関わりたくなかった。
甘えだ、と竹乃は思う。これはどうしようもない甘えだ。
それか、もしかすると、竹乃はまだ5年前のあの日から、大和が出て行ったという事実を未だにうまく飲み込めていないのかもしれなかった。
だから、そわそわと大和を待つ柳二の姿に、違和感を覚える。
そわそわ待つのと、じりじり待つのとでは、確かに違う。

「柳兄、大和兄が帰って来んの、ずっと待ってたんやなあ」

ぽつりと出た言葉に、柳二はゆっくりとこちらを振り向いて、何とも言えないような顔をした。
下唇を噛んで、珍しい表情をしている。

「……どないしたん?」

柳二は両手で顔の下半分を覆い、掌にふーっと息を吹きかける。
それから柳二はその手を下ろして、ぎゅっと腕を組んだ。何か、支えを求めるかのように。

「お前にはもう言うてもええかな」
「はあ?何の話?」

兄を待つ二人の頭上に、真っ白な雪が降り始めた。



――――――――――――――――



大和が「そう」だと柳二が知ったのは、高校を卒業する頃だった。
一つ年上の兄は、やたらとモテた。それなのに彼女を作ったことが一回もなかったから、もしやとは思っていた。
ある時、二人とも未成年のまま、父に隠れて大和と二人で酒盛りをした事があった。その時、柳二の口は羽衣よりも軽くなってしまったのだ。
気になっていたことを、よく回らない舌に任せて、聞いてしまった。

「大和ってずっと彼女おらへんよなあ。作らへんの?あ、もしかしてぇ、女より男のほうが好きなんちゃうん?」

その時の大和の顔色の変わりようを見て、柳二の酔いは一気に醒めた。聞いてはならないことだったのだと、大和が何かを答える前に既に悟っていた。つまり、そういうことだったのだ。
大和はそのあと、自ら認めた。きちんと柳二に打ち明けてくれたのだ。しかし、両親には絶対に言うなと釘を刺された。
言うものか、と柳二は思った。大和が自分だけに教えてくれた秘密だ。たとえ可愛い竹乃にだって洩らしたりはしない、と。
兄の性癖に偏見は持たなかったが、しかし、見方が変わると見えてくるものも変わるようで、その後柳二はあることに気付いた。
大和が見ているのは自分なのではないか、ということだ。
最初は、意識のしすぎだとも思った。気にしすぎだ、気のせいだと。
しかし大和の身辺に気を配ってみると、性別に拘わらず恋人の気配は一向にない。兄に似て見目の良い柳二だったから、柳二は彼女のいないことのほうが珍しかった。自分がそうだからといって大和に恋人がいないことをそこまで不思議がることもないのだが、それにしても、あまりにも長い間、大和には恋人と呼べる存在がいなかった。
普通なら、恋をして、好き合って、誰かのそばにいたいと思うのではないだろうか?
大和には、そういう気持ちはないのだろうか?
そこまで考えが及ぶ頃には、柳二は大和の視線をはっきりと感じるようになっていた。
「そうか、俺なんか。俺がいてるから、ええねんな」と、そう思って妙に納得したのをよく覚えている。柳二なら、いつも一緒にいる。同じ家で暮らしている。恋人よりも、近いところにいる。
兄に対する嫌悪感はなく、ただ戸惑った。
その柳二の戸惑いが、伝わってしまったのかもしれない。
それからしばらくして、大和は姿を消した。柳二が19歳の時だった。





「……何やそれ。……知らん」
「そりゃ知らんやろ。今初めて言うたもん」
「ウチ、大和兄は、寺継ぐんが嫌やから出てったんかなて、ぼんやり思うててんけど」
「まあそれも強ち間違ってへんわ。寺継ぐいうことは、奥さんもろて子ども作らなあかんやろ」
「……せやな」

柳二の語る間に、牡丹雪のような白い欠片が無数に舞い降り、重なり合っていた。
アスファルトの上に積もったそれを踏み分けて、大和がもうすぐ帰って来る。

「大和からの電話取ったん、俺やねん」
「あ……そやったっけ」

電話のベルは、師走の初めに鳴った。
震える声で、誰からの電話かすぐに分かった。
「今どこにいる」とも、「何をしている」とも、柳二は聞かなかった。ただ電話口の向こうの大和が話し始めるのを待った。
やがて「今年の大晦日、帰る」、と。大和がそれだけ言ったから、柳二にとってはもうそれで充分だった。
冷え切った声だった。電話を取ったのが柳二でなければ、大和ももう少し切り出しやすかったかもしれない。
「待ってんで」と柳二は答えた。大和が、「待ってる」と言われたくて電話をかけてきたのか、「もう帰って来なくていい」と言われたくて電話をかけてきたのか分からなかったが、とにかく、柳二の思ったまま答えた。
そのまま電話は切れた。

「勝手やなあ思て」
「確かに。返事くらいしろやっちゅう話やんな」
「や、そうやなくて、何で勝手に出て行ってしもたんかなあて。俺に一言あるべきやったと思わへんか?」
「そら……言いにくいやろ。兄弟やで」
「まあ……兄弟やなあ……」

大事な言葉をもらわないまま、それに対する返答の機会すら与えられず、時間だけが流れて行った。
「柳二、大和がおらん」、と、血相を変えて父が柳二の部屋に飛び込んで来たあの時から、柳二は大和に置き去りにされたままだった。

「でも、告白、とかやなくてもさ、相談くらいしてくれても良かったんちゃうか、て思う」
「……ウチには難しい」

隣で蹲る妹は、眉を寄せていた。
背伸びせずにこうして素直に「分からない」と言えるところは、竹乃の美徳であると思う。
何だか急に妹が愛おしくなってその頭を撫でると、照れたように「何やねん」と返ってくる。

「俺な……」

柳二が言いかけた時、向こうのほうに人影が見えた。
大和だ。


ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

白の季節1 (サイダー:作)

12月分「白の季節」二人目です。
書いた人:サイダー

閲覧数:156

投稿日:2011/12/22 23:47:44

文字数:4,992文字

カテゴリ:小説

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