その日の夕食前、わたしが階下に下りて行くと、神威さんが玄関ホールに立っていた。……珍しいな。今日は平日なのに。
「こんにちは」
わたしは立ち止まって、神威さんに丁寧に頭を下げた。
「確かルカの妹の……」
「下の妹のリンです」
答えながらふっと気づく。神威さんと喋ったのって、考えてみたらこれが初めてかもしれない。
「幾つだったかな?」
「高校二年生です。神威さんは、ルカ姉さんにご用でしょうか?」
わたしが尋ねると、神威さんは苦笑した。
「お義兄さんでいい。もうじきそうなるわけだから」
……そう、なのよね。やっぱりピンと来ないのだけれど。そもそも、ルカ姉さんは神威さんのことを「嫌いではない」のだし……。それで結婚してしまって、本当にいいんだろうか。でも、そんなことを神威さんに言うわけにもいかない。
神威さんは確か神威グループという、やっぱり大きな会社の社長の息子さんなんだっけ。向こうはわたしのところとは逆で、息子ばかりらしい。だから婿養子の話がすぐにまとまったんだろうか。
「高校二年生か……一番いい時代だな」
神威さんはそう言って笑った。わたしはどう反応すればいいのかわからず、愛想笑いを浮かべてしまう。
「それでさっきの質問だが、急にルカの顔が見たくなったのでな。気がついたら車を飛ばしていた」
……そうなんだ。
「あの……ルカ姉さんは?」
肝心のルカ姉さんの姿が見えない。
「折角来たのに、ただで帰るのはもったいない。だから食事に行くことにした。ルカは今、自分の部屋で支度をしている」
それで神威さんは玄関ホールで待っているのね。ルカ姉さんが下りて来たら、すぐに一緒に外に出るつもりなんだわ。
「あの……」
「ん? 何だ?」
「その……神威さんは……」
わたしは訊こうとして、ためらった。こんなことを訊いてしまっていいのだろうか。
「何か気になることが?」
どうしよう。適当にお茶を濁して逃げようか、それとも訊いてしまおうか。
「ル……ルカ姉さんのこと……だからその……」
わたしが神威さんの前で口ごもっていると、神威さんは柔らかい感じの笑顔になった。
「そうか……ルカのことが心配なのだな」
わたしは頷いた。……心配、といえばそうだ。
「ルカはこんな大きな家の跡取り娘だしな。妹が心配になるのも仕方はないか。でも俺は、ルカが巡音家の跡取りだから結婚を決めたわけじゃない。だから安心してくれ」
えーっと……わたしが訊きたいのは、そういうことではないのだけれど……。
でも……こういうことを言うってことは、神威さんはルカ姉さんのことを「ロボットみたい」とは思ってないってことよね?
「あの……」
「今度は何だ?」
「ルカ姉さんのこと……どう思っているんですか?」
まさか「ロボットみたいですよね?」なんて言うわけにもいかない。なので、わたしの疑問は大味な言い回しになってしまった。そんなわたしの言葉を聞いて、神威さんが苦笑する。
「年頃だから、そういうことに興味を持つのも仕方がないだろうが、あまり詮索されたいことではないな」
「……すみません」
「そう気にしなくてもいい。ルカのことか……綺麗で、淑やかで、控えめで……大和撫子とは、ああいう女性のことを言うのだろうな。今日び、あのような女性は貴重だと思う」
つまり、神威さんはルカ姉さんのことを気に入って、結婚したいとは思っているんだ。でもそれって、逆に厄介なんじゃないのかな……。うまく説明できないけど……。
わたしが考え込んでいると、足音が聞こえて来た。……ルカ姉さんだ。綺麗に身支度している。ルカ姉さんは階段を下りてきて、神威さんの前で立ち止まった。
「お待たせしました」
そう言ってから、ルカ姉さんはわたしの方を見た。……なんだか、後ろめたい気持ちがする。
「リン、何をしているの?」
「神威さんとちょっと話をしていたの」
わたしは下を向いて、ぼそぼそとそう言った。
「さて……行こうか」
「ルカ姉さん、行ってらっしゃい。神威さん、姉をよろしくお願いします」
わたしはそう言って、頭を下げた。
「それでは失礼する」
ルカ姉さんは神威さんと一緒に、行ってしまった。
……何だろう。何か、違和感があるのよね……。何なのかは、よくわからないけれど。
お母さんと二人の夕食を済ませた後で、わたしは部屋に戻った。ベッドに腰を下ろして、物思いに耽る。
神威さんは、さっきルカ姉さんのことを「綺麗で、淑やかで、控えめ」と表現した。確かにルカ姉さんは、妹のわたしの目から見てもとても美人だ。ルカ姉さんのことを不美人なんて言える人は、この世にいないだろう。礼儀作法も立ち居振る舞いも完璧だから「淑やか」と表現されるのもわかる。
でも……最後の控えめ、というのは? もしかして神威さんは、ルカ姉さんが自己主張をしないことを「控えめ」って受け取っているんじゃないの?
それでいいのかな……。神威さんはいいことだと受け取っているみたいだけれど、わたしにはそうは思えない。
考えすぎ、なのかな……。
ふっと、「美しいからといってわたしを愛さないで」というフレーズが頭に浮かんだ。ドイツの詩人、リュッケルトの詩。わたしは立ち上がって、CDの棚のところに行くと、ロベルトとクララの歌曲集を取り出して、プレーヤーにセットした。
すぐに、綺麗なピアノの旋律と、それに乗せた歌声が流れ出す。リュッケルトのこの詩はマーラーも曲をつけていて、そちらの方がずっと有名なのだけれど、わたしはクララがつけた曲の方が好きだったりする。
この詩は、美しさや若さや豊かさ故に愛さないでという内容だ。そんな理由で愛してほしくはないからと。そんな理由で愛するのなら、もっと他のものを愛したらいいのだと。
愛するのならば愛ゆえに。そうしてくれれば、自分も永遠に愛し続けましょう。
……クララも、きっとそんなふうに考えていたのよね。だからこの詩に曲をつけたんじゃないかしら。
今日、昇降口で会ったあの男の子は、わたしのことを「綺麗な人だから好き」って言ったっけ。でも……そう言われて、わたしが感じたのは戸惑いだけだった。嬉しくはなかった。
そう言えば……リュッケルトだけじゃないのよね。確か他にも、こういうことを書いた人がいたわ。誰だったかしら……。確か、女の人だったはず……。
わたしが思い出そうとしている間に、CDは終わってしまった。もう一度聞こうかどうか考える。
やめよう。リュッケルトじゃない方が、記憶が刺激されるかも。何を聞こうか考えている時に、ふっと一枚のDVDに目が留まった。ロッシーニの『チェネレントラ』わたしの、一番好きなオペラだ。
わたしは『チェネレントラ』を取り出した。これはDVDだから、居間に持っていかなければ見ることはできない。別に今、見たいというわけではないのだけれど……。裏を返して、キャストの一覧を眺める。
むかしむかし王様が……。選んだのは心優しくて……。
ミクちゃんに今度、このDVDを貸してあげようかな。ミクちゃんはオペラはあまり好きじゃないけれど、このDVDのキャストはかなりいい方だ。ちゃんと王子様が王子様に見えるし。イタリア物だと珍しいのよね。
あ、そうだ。明日は部活を休むつもりだったんだわ。まだ電話しても大丈夫な時間帯よね。今のうちに電話してしまおう。
わたしは携帯を取り出して、ミクちゃんの番号にかけた。
「……もしもし。リンちゃん、どうしたの?」
「あ、あのね……ミクちゃん。その……ミクちゃんには悪いんだけど、明日、部活休んじゃってもいい?」
「別にいいけど……リンちゃん、どうかしたの?」
ミクちゃんに訊かれてしまった。ちゃんと事情は説明しておかないと。
「あ……うん。今日の放課後、鏡音君と脚本の手直しをしていたんだけど、それ、思ったより時間かかっちゃって……鏡音君は明日も部活無いって言うし、早いうちに仕上げてしまいたいの。だから、部活を休みたいんだけど……」
電話口の向こうから、ミクちゃんがくすくす笑う声が聞こえてきた。
「そんなにかしこまらなくてもいいってば、リンちゃん。どうせ大した活動してない部なんだし、気にしない気にしない」
あっけらかんとミクちゃんは言った。
「……ありがとう。あ、あの……何だったら、ミクちゃんもこっちに来ちゃう?」
鏡音君はああ言ってたけど、やっぱりミクちゃんを放っておくのはよくない気がしてきた。勝手に決めるのはよくないことだけど……でも……。
「え~、わたし、いい。脚本の手直しなんて面倒くさそうなんだもん」
わたしが悩んでいると、ミクちゃんはさっさと返事を返して来た。
「そ、そう?」
「うん、そういう細かい作業ってあんまり好きじゃないの」
「でもミクちゃん、デコ得意よね?」
ミクちゃんは、デコが好きだ。携帯からペンケースから何でも、周りの品は全部キラキラにしている。わたしの携帯もやってあげると言われたけれど、キラキラになった携帯をお父さんが見た時の反応が怖かったので、それは丁重に断った。代わりに、シンプルな小物入れをキラキラにしてもらったんだっけ。お気に入りのアクセサリーを入れるのに使っている。
「あれは別。キラキラしてるし色取り取りだから、見てるだけで楽しくなってくるもの。でも、文字の羅列は見ていても楽しくないし」
そうなんだ。ミクちゃんらしい答えに、わたしの気分は少しだけ明るくなった。
「そういうわけだから、リンちゃんは遠慮せずにそっちの作業に集中しちゃってね。あ、それと、クッキー美味しかったわ。また作ってね」
「うん、ありがとう。今度は何がいい?」
「わたし、アイスボックスがいいな」
アイスボックスクッキーか……形を整えるのがちょっと大変だけど、頑張れば可愛いクッキーになるのよね。渦巻きとチェックしか作ったことないし、わたしが作ると形がボコボコになっちゃうんだけど。
「わかった。じゃ、今度焼く時はそれにするね」
そう言って、わたしは通話を切った。
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