次の日、わたしはいつもと同じ時間に登校した。昇降口に入った時は、ちょっとだけ怖さを感じたけれど、もうあの男の子もいなかったし……。
教室に入って、本を開く。今日持ってきたのは、ジョルジュ・サンドの『愛の妖精』だ。フランスの農村を舞台にした、双子の兄弟と風変わりな少女の恋の話。
「おはよう、巡音さん」
わたしが本を読んでいると、登校してきた鏡音君が声をかけてきた。読んでいた本を机の上に置いて、そっちを見る。
「おはよう、鏡音君」
あ、そうだ。あのこと言っておかなくちゃ。
「あのね、部活は休むことにしたから、今日の放課後は作業の続きができるわ」
部活を休むのはいいことじゃないけれど……でも、わたしの心は何故か浮き立っていた。
「初音さん、いいって?」
「ええ」
鏡音君は、珍しく表情が暗い。わたしが部活を休むのに抵抗あるのかな。
「あの……本当に大丈夫だから。ミクちゃんも全然構わないって言ってくれたし」
「ああ、ごめん。ちょっと他のこと考えてて。じゃあ、放課後にね。……あ、巡音さん、クッキー美味しかったよ。姉貴も喜んでた」
美味しかったのね。口にあうかどうか心配だったので――だって、ミクちゃんと違って好みを知らないもの――わたしはほっとした。
「お姉さん、甘い物好きなの?」
「ん~どっちも好きだけど、チーズが入ってる奴の方が気に入ったみたい。昨日晩酌しながら食べまくってたよ」
そうなんだ。わたしは未成年だし、お母さんもルカ姉さんもほとんど飲まないし、お父さんは家であの手のものは食べないから、お酒にあうかどうかまでなんて考えたことはなかったな。
「鏡音君は?」
「俺もどっちかっていったら甘くない方かな」
じゃあ、今度焼く時はああいうのを大目にしよう。憶えておかなくちゃ。ケークサレとかでもいいかもしれない。
「おはよう、リンちゃん」
あ、ミクちゃんだ。ミクちゃんが来たので、鏡音君は「じゃあ、放課後にね」と言って、自分の席へと行った。
「おはよう、ミクちゃん」
ミクちゃん、最近妙に嬉しそうなことが多いのよね。何かいいことでもあったのかな。
放課後、わたしたちはまたコンピューター室に移動して、昨日の作業の続きを始めた。作業は昨日と同じように進んだ……と言いたいところだけれど、今日は、何故か上手くいかなかった。……どうして?
「鏡音君、結末は映画と同じにするって昨日決めたけれど、どういう感じにしたらいいと思う? 原作だと、教授のお母さんの家のシーンで終わりよね。ここから一度幕を下ろして、教授の家のシーンに戻しちゃう? それとも、別の形にする?」
あれ……返事がない。
「鏡音君? どうかした?」
わたしが少し大きな声を出してみると、鏡音君はびっくりした表情でこっちを見た。わたし、何か変なこと言った?
「えーと……何だっけ?」
わたしの声……聞こえてなかったのかな。普通の声で喋っていたつもりだったんだけど……。
「ラストシーンの変更を、どういう形にするのかを訊いたの。原作だと教授のお母さんの家で終わってしまうでしょう。映画だと、そこから教授は自宅まで歩いて帰って、自宅でイライザの声を聞いているところに、イライザが帰って来るわ。一度幕を下ろして教授の家に場所を移すのか、それとも何か違う形にするのか、どっちがいいのかなって思って」
「違う形っていうと、例えば?」
そう訊かれたので、わたしは考えてみた。
「お母さんの家の応接室で教授が物思いに耽っているところに、イライザが心配になって様子を見に来るとか」
これだと時間が短くて済むわよね……多分。あんまり長いと演劇部の人たちも疲れちゃうだろうし……。
「でも、わたしとしては、映画と同じように教授の家に戻った方がいいと思うの。『スリッパはどこ?』って訊くんだったら、家じゃないとおかしいし。それに、教授がイライザの声を聞くのも、家じゃないとできないわ。携帯のプレーヤーとかがある時代じゃないもの」
「確かに家に帰った方が、話の流れからしても自然だし、雰囲気が出ると思う。家に帰らせよう」
しばらく考えた後で、鏡音君はそう言った。……ちょっとほっとする。自分の意見を口にするのも慣れてはきたんだけど、やっぱりまだ、少し怖さを感じてしまう。
否定されたからといって、人生が終わるわけではない。そのことも、頭ではわかっているのだけれど……。頭でわかっていても、恐怖を克服するのは難しい。
少しずつでいいから、どうにかしていかなくちゃ。
……妙な話だけれど、鏡音君に認めてもらうと、なんだかちょっと特別な気がする。鏡音君以外の人とは相変わらずそんなに話してないから、自信を持って断言することはできないんだけれど。
鏡音君は、画面に映ったデータを編集し始めた。わたしは、そんな鏡音君に向かって、思いついたことを言ってみる。
「歌は入れないわけだし、幕を下ろして、その前を教授に歩かせる?」
……また、返事が無い。集中しているせい? わたしは、作業が終わるまで待って、もう一度訊いてみた。やっぱり返事が無い。
わたしは困ってしまって、下を向いてしまった。すぐに途方にくれるのも良くないことだとは思うのだけれど、どうやったら治るんだろう。
「あ、巡音さん、その……」
ぼんやりしていると、鏡音君の声が聞こえた。わたしははっとしてそっちを見た。……いけない。ちゃんと返事をしなくちゃ。
「何?」
「あ……えーと、その……」
鏡音君は困った表情をしている。わたし、何かした?
「短い時間でセット変更するの大変なんだけど、何かアイデア無い?」
「え……ええ。色を利用したらどう? シーンごとに色の基調を決めて、カバーとかを取り替えちゃえば?」
わたしが見に行くような大掛かりな舞台じゃないんだから、シンプルじゃないと。
「ああ、椅子のカバーやテーブルクロスを変更するわけね」
「そんな感じにしたらいいと思うの」
わたしが頷くと、鏡音君はまたアイデアを入力し始めた。鏡音君は真剣なんだから、わたしもちゃんとしなくちゃ駄目よね。
でも……どうして、今日は話が噛み合わないんだろう……。それに、鏡音君、昨日と比べて、こっちを見てくれないような気がする……。
結局、作業は全部終わらなかった。わたしはちょっと暗い気分で、帰宅の途についた。確か演劇部って水曜はお休みだし、わたしも予定は無いから、明日も続けることはできるんだけど……。
なんで、今日は昨日みたいに話せなかったのかな。昨日は脚本に関する話はもちろん、それ以外にも色んな話ができて、とても楽しかったのに。一体何がいけなかったの?
考えれば考えるほど、気分が落ち込んでくる。今日、変なことは何もなかったわよね。昨日あげたクッキーだって、美味しかったって言ってもらえたし。ミクちゃんも美味しいって言ってくれたから、クッキーの味が変だったってことはない。
じゃあどうして、今日、鏡音君とわたしの話は噛み合わなかったの? わたし、自分でも気がつかないうちに、鏡音君が怒るようなことを、何か言ったりやったりしちゃったのかな? でも、だとしたら何? 全然思い当たることがない。わたしに人と交流した経験が少ないからいけないの?
それとも……今日起きたことはすごく些細なことだったけれど、今までの色々なことが積もり積もって、鏡音君の限界を越えちゃったの? わたし、色々と迷惑をかけてきちゃったし……。もう一緒にいたくないって思われたとか?
不意に、涙がこみ上げてきた。次から次へとこぼれ落ちてくる。……嫌われたくない。
「お嬢様、どうかなさいましたか?」
運転手さんが泣いているわたしに気づいたのか、わざわざ振り向いて尋ねてきた。
「……なんでもないわ」
わたしは涙を拭って、唇をぎゅっと噛んだ。泣くのは駄目だ。騒ぎになってしまう。
涙は止まったけれど……胸の苦しさは、消えてくれなかった。
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