火曜日。めまいは治まったので、学校に行こうとしたのだけれど、お母さんに止められてしまった。
「昨日倒れたのよ。リン、大事を取って今日も休みなさい」
「……もう平気よ」
「いいから、今日は家にいなさい。学校には連絡しておくから」
 結局、わたしは休むことになってしまった。何だかちょっと後ろめたい。朝食を食べて、自分の部屋に戻る。そうだ、ミクちゃんに「今日も休む」って、メールしておかなくちゃ。携帯を取り出して、メールを送信する。
 さてこれからどうしようか。めまいはもう治まっているから、横になる必要もない。突然できてしまった空白の時間に。わたしは戸惑っていた
 音楽でも聞くか、本でも読むか……結局、いつもと同じになるのね。ため息をつきつつ、CDやDVDの並んでいる棚の前に立つ。その時、あることに気づいた。
「……あれ」
 並べておいたDVDが崩れていて、一枚が床に落ちている。なんでこんなことになっているんだろう。……昨日、ふらついた時にぶつかりでもしたのだろうか。考えてみたが、思い出せない。わたしはため息をつくと、崩れたDVDを並べなおし、落ちていたDVDを拾い上げた。ケースを開けて中を確認する。……破損はないみたい。
 落ちていたDVDは、十九世紀のフランスの作曲家、マスネが作ったオペラ『タイス』だった。確か宗教物よね。前に見たの、いつだったかな。
 ……もうこれでいいか。わたしは『タイス』のDVDを片手に、部屋の外に出た。わたしの部屋にはテレビやパソコンといった、映像の再生機器が無い。だからDVDを見ようと思ったら、下の居間に行かなくてはならないのだ。
 居間には誰もいなかった。お母さんはキッチンか、自分の部屋にいるのだろう。平日だからお父さんとルカ姉さんは当然仕事だし、ハク姉さんは相変わらず自分の部屋だ。わたしはDVDをプレーヤーにセットして、リモコンのスイッチを押した。
 このオペラの舞台は昔のエジプトだ。でもこの舞台では、演出はあまりエジプトということは意識していないみたい。着ているものも、エジプトの衣装じゃない。かといって、現代でもない。ちょっと不思議な感じの衣装をみんな着ている。外国の有名な劇場の公演だから、背景も衣装もかなり凝っている。
 画面では、主人公の修道士アタナエルが、遊女のタイスを改心させたいという決意を歌っている。タイスは昼は舞台にあがる人気スター、お金を積まれれば身体も売るという設定だから、例えて言うなら吉原の花魁や太夫が近いだろうか。そんな彼女がアレクサンドリアを堕落させているから、正しい道に導いてやりたい――早い話、出家させたいということだ――のだと。修道院長は止めるけれど、アタナエルはこれが自分の使命だと言って、反対を押し切って出かけていく。どうしてあんなに一生懸命なんだろう。
 ふっと、鏡音君が言っていたことを思い出した。鏡音君のお姉さんが、ロドルフォのことを「ヘタレ」だと言っていた、という話だ。鏡音君のお姉さんだったら、アタナエルのことはなんて言うのかな。
 ……なんでだろう。胸が痛い。
 アレクサンドリアに行ったアタナエルは、旧友の哲学者、ニシアスと再会する。タイスの所在を訊くと、ニシアスはタイスは自分の館にいると答える。ニシアスはタイスをお金で館に引き留めていたのだ。二人は、ニシアスの館の宴で出会う。
 アタナエルは信仰の素晴らしさを説き、タイスは情愛の素晴らしさを歌って、アタナエルをあしらう。くいちがう二人の言葉。正直、わたしには二人の言うことがよくわからない。タイスが歌って讃える情愛のことなんて、わたしでは理解のしようがないし、アタナエルが歌う信仰についてはもっとわからない。二人が、違うものを信じているということだけが、かろうじてわかるぐらいだ。このオペラはよく「霊と肉の相克」と説明されるけれど、その言葉の意味もわからない。……駄目だな、わたし。マスネの音楽はとても綺麗なのに。
「……リン?」
 後ろからお母さんに呼びかけられて、わたしははっとなった。
「あ……お母さん」
 わたしはリモコンの一時停止ボタンを押そうとして、戸惑った。いつの間にか、最後のシーンになっている。死にかけているタイスと、アタナエルの二重唱だ。相変わらず二人の言うことはくいちがっている。今度はタイスが信仰の素晴らしさを歌い、タイスに魅了されてしまったアタナエルが、情愛について歌っているのだ。いつの間にか、二人の立場は最初と逆になってしまっている。
「お昼ごはんよ」
「うん……すぐ行く」
 おかしいな……まだ第一幕だったはずなのに。居眠りしちゃったんだろうか。DVDを止めてテレビの電源を切り、わたしは食堂に向かった。お昼ごはんを食べながら、さっきのことを思い返してみる。やっぱり、寝ちゃったのかな。オペラを見ながら居眠りなんて、わたしらしくないけれど。
「リン、具合はどう?」
「もう大丈夫」
「無理はしないのよ」
「……ええ」
 お昼ごはんを食べ終わった後、わたしは居間に向かった。居間のテーブルの上には、タイスのケースが置きっぱなしになっている。わたしはプレーヤーからDVDを取り出してケースに仕舞うと、それを持って、自分の部屋へと戻った。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

ロミオとシンデレラ 第十三話【わたしの魂は空虚で】

 当初はこの次の章とあわせて一つの章にする予定だったのですが……どうも座りが悪いので、切りました。そのせいで短いです。

閲覧数:1,076

投稿日:2011/09/04 01:34:29

文字数:2,167文字

カテゴリ:小説

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