〈シャングリラ第二章・三話④~まだ続く・社会進出の為の日常の数々~〉
その⑥
SIED・KAITO
デビューの日が近い俺は、マスターの手掛けた曲に合わせるダンスのモーションをDLするために、ラボへときていた。メンテに使う機材の合間を行き来する、顔見知りの研究員の動きを何とはなしに見ていると。
「いやぁぁぁぁぁあぁだぁぁぁぁあ!!!!!!」
ふと、微かだがマスターの悲鳴が聞こえた。人間を遥かに凌駕する俺の聴力が捉えたそれは、この部屋の他の誰にも聞こえてはいない。
「マスター!!??」
一体何があったのか、その声には切羽詰まったような響きが含まれ、かなり緊急を要する事態に落ちいっていると予測される。
俺は慌ててラボを飛び出すと、全力で通路を駆け抜けていった。
「大丈夫ですか、マスター!!!!!」
脳内で瞬時に方向と距離を計算し、おおよその見当をつけてその部屋のドアにたどり着いた時。
「っ、ううう、」
ちょうどマスターが泣きながら出てくるのと出くわした。
「…マスター?」
「うう、…カイトぉ、」
涙目で俺に縋りつくマスターの肩を抱いて、すぐに気づいた違和感。
「え!?」
素肌だ。困惑して、肩、腕、背中と触れて行っても、一向に服と出会わない…。なんだこれは!?
俺は驚いて、思わず彼女を引き離し、まじまじとその姿を確認して青褪めた。
服を…着ていない…。
何故だ、どうして、何があってこうなった!?
「マスター、これは一体どういう…、」
まさか、まさかまさか…まさか!!!
あらぬ想像で声が震える。急激に上昇する、あらゆる感情を司るパラメータが暴走寸前だ。脳内に響く警告音が、各所発生したエラーを伝えているが、それどころではない。
「あらあら、カイト君ちょうどよかったわ!そのまま篠武さん捕まえといて!」
「ひっ!!!!!」
が、部屋の中から慌てた様子で出てきたのは、この工学研究所の所長で、マスターの義理の母親でもある加奈さんだった。
「あの、何があったんですか?」
腕の中で怯えているマスターを改めて抱きなおし、とりあえず最悪の事態ではなかったことに安堵した。もし、万が一この部屋から出てきたのが男だったりしたら、…俺はきっと正気ではいられなかったに違いない。
どなたかお客様の中に、アイスピックをお持ちの方はいらっしゃいませんか?
「もう、この子ったら全然言うこと聞いてくれなくって…、」
所長さんの溜息と苦笑に、俺のエラーも収まりシステムが正常化していく。
とりあえず、しがみついて離れないマスターを促し部屋に戻ると、俺のロングコートをその身体に羽織らせた。
その格好のままくっつかれていると、不埒な気分になってしまう。
「カイト君、あなたの勤め先と篠武さんとの関係性は…以前話したから知っているわよね?」
唐突に振られた話題に、戸惑いながらも頷く。
彼女の生い立ちと、少年(少女?)時代の深いトラウマに関わっている一族がトップに立つ会社だ。本当は、そんなところにマスターを近づけたくないし、マスター自身もそう思っているはず。
でも、彼女が俺の『マスター』を引き受けたからには、どうしても避けては通れない関門だった。
「昴側は、篠武さんを『男の子』で、『もう死んでいる』と認識しているから、ここまでしなくてもいいかとも思ったんだけど…やっぱり念には念を入れたほうがいいから、」
そう言って、部屋の奥から所長さんが持ってきたものは。
「篠武さんを、完全な『女性』として教育するわ、」
様々な化粧品と、色とりどりのワンピースやらスカートやら…。ああ、なるほど、それを着せようとして俺の大事なマスターを剝いたんですね。
確かに、所長さんの言い分はもっともだ。リスクは極力避けるべきだし、マスターの身の安全の為に必要ならなんだってする。
けれど。
「………、」
俺から離れようとしない彼女が、無言で激しく首を横に振るのを見て、思わず天を仰いだ。
これは、俺の社会進出のプロセスよりも前途多難だな…。
その⑦
SIED・SINOBU
どうしてこんなにも自分が『女』であることを否定するような言動をとるのか。
原因はただ一つ。『昴』だ。
昴要、あの男の存在が、オレの中に深く消えない傷を刻み込んだ。
まだ男として生きていた子供のオレを、あろうことか無理やりモノにしようとしやがったあいつに、『木崎篠武』は『女』だと知られるのが、怖くてたまらない。
もし、もしもオレが生きていて、成長しきった女の身体を持っているとバレたら。
今度こそ、この場ではお見せできない酷い仕打ちをされるに決まっている。
その恐怖はそのまま、自分を女だと指し示す可能性のあるもの全てに向けられるようになった。
服も化粧もパンプスも、花やレースのついたカラフルな小物ですら恐ろしい。
本当はこの長い髪だって、今すぐ切り落としたくて…。
「あ…、ヤバいなー…、」
密閉して雁字搦めに鎖で縛りつけ、何重にも鍵をかけたはずの忌まわしい記憶が、じわりと染み出してくる。
ダメだ、ダメだ、思い出すな。
強く掴まれた血のにじむ腕、背中を打つ固いコンクリートの冷たさ、口の中を侵す土埃と鉄錆のえぐい味、霞む視界に滲む影と脳髄をつんざく叫び声の痛み…
「マスター?」
「…っ!!!!!」
暗い思考に吞まれていたオレは、突然肩に置かれた手とかけられた声に、全身に鳥肌を立てて身を震わせた。
「大丈夫ですか?顔色が悪いですよ、それに…マスター?」
「カ…イト…、」
「ええ、あなたのカイトですよ、」
はっと顔を上げた先にある、心配そうな彼の青い双眸を見て、少しずつ落ち着きを取り戻す。
あ、そうだ、そうだった。ここは…リビング?
「あの、具合悪そうですし、少し横になったほうが…、」
様子のおかしいオレを、精一杯気遣ってくれる優しいカイトの声が、身体の強張りを溶かしていく。
「…ん、そだね、…少しだけ寝ようかなー、」
今更になってまた、あのトラウマに悩まされるなんて思いもよらなかった…。
だけど、このままじゃ先に進めない。カイトの為にも、足掻いてもがいて、血反吐を吐き散らしてでも克服しなくては。
「じゃあさー、…カイト、添い寝してくれる?」
「え…、あ、…はい、喜んで!」
オレはカイトを受け入れると決めたあの日に、覚悟を決めたのだから。
四話へ続く
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