金曜の夜、なんだかよくわからない食事会の後で帰宅した俺は、自室のPCで柳影公園の場所を調べた。そこそこ距離があるな。巡音さんはよく知ってるみたいだから、彼女の家からすると行きやすいんだろう。
翌日、普通の時間に起きだした俺は、朝食を取って身支度をすると、ポケットに財布と家の鍵と携帯を突っ込んで、家を出た。姉貴は仕事なので既に家にいない。
電車に乗って、目的地に向かう。公園までは道に迷うこともなく、あっさり辿りついた。ボート乗り場ってのは……あ、あれか。時計を見る。九時五十五分。ちょうどいい時間に着いたな。このまま待ってよう。
俺はボート乗り場の前で、巡音さんが来るのを待った。……ところが、十時になっても、肝心の本人が現れない。あれ、おかしいな? 巡音さんて、割ときっちりしてる性格だと思ったんだけど。
まあ、五分ぐらいの遅刻は遅刻に入らないよな。俺はそのまま待った。だけど、十分が経過しても、やっぱり巡音さんは現れない。念のために携帯をチェックしてみたが、着信も来ていない。
うーん……まさかとは思うが、約束を忘れたんだろうか? それとも、何か不本意な事態でも発生したとか? 連絡してみようか。でも、巡音さんの親って異常にうるさいんだっけ。
俺は携帯をしばらく眺めた後、仕舞いこんでもうしばらくだけ待ってみることにした。かけてみるのは最後の手段にしよう。
俺は水鳥が泳いでいる公園の池を眺めながら、そのまま待ち続けていた。このまま現れなかったら、俺がマヌケだよな……と思いながら。そうして、どれくら経過しただろうか。
「ご……ごめんなさいっ! 遅刻、しちゃって……」
聞こえてきた声に振り向く。顔を真っ赤にした巡音さんが、そこにはいた。それだけ言うと、後はぜいぜいと荒い息を吐いている。どうやら、ここまで走ってきたらしい。
「あ……巡音さん」
寝坊でもしたんだろうか……。うわ、髪がぐしゃぐしゃだよ。いつもきちんとしているのに。……でも、なんだか可愛いな。
「髪がすごいことになってるけど……」
俺は何気なく手を伸ばして、巡音さんの顔にかかっている髪をかきあげた。弾みで、俺の指が巡音さんの頬に触れる。瞬間、巡音さんが今まで以上に赤くなって硬直した。
「え……」
巡音さんの瞳が、じっとこっちを見ている。その瞳から視線を逸らすことができない。俺たちはしばらく、そうやってみつめあっていた。
「ああああの……本当に、ごめんなさい……」
巡音さんは赤くなったままで、ようやく口を開いた。そのまま視線を伏せてしまう。
「……寝坊でもしたの?」
俺の問いに、巡音さんが頷く。……なんだか巡音さんのイメージとあわない気がするんだが。
「夕べ夜更かしでもした?」
「え……ええ。そんな感じ……」
口ごもりながらそう答える巡音さん。様子がおかしいような気がする。
「なんかあったの?」
俺はなるべく軽い口調で訊いてみた。
「あったっていうか、その……」
巡音さんは下を向いてしまった。……話したくないようだ。でも、なんだか気になるな……。俺は辺りを見回した。少し離れたところに、ベンチがある。
「巡音さん、あっちにベンチがあるから座って話そうか」
頷いてくれたので、俺たちは連れ立って、池の向かいにあるベンチまで移動した。
ベンチに腰を下ろすと、巡音さんは無言で目の前の池に視線を向けた。少しぼんやりとしている。……大丈夫だろうか。
「巡音さんって、この公園にはよく来るの?」
俺は、なるべく無難そうな話題から振ってみることにした。
「……小さい頃にはね。最近はあんまり……わたしも忙しくて」
淡々とそう答えて、巡音さんはまた池をみつめていた。その瞳から、涙が一筋零れ落ちたのに気づいて、俺は愕然とした。
「巡音さん……」
「……平気だから」
全然平気そうには見えない表情で、巡音さんはそう言った。……参ったな。
「あ、あのさ……なんか悩みがあるんだったら、俺でよければ話を聞くよ?」
このままにはしておけないよ。俺にそう言われた巡音さんは瞳を伏せ、考え込んだ。
「あの……」
やがて、巡音さんはおずおずと口を開いた。
「うん?」
「あのね、これから話すこと、誰にも話さないでもらえる? ミクちゃんにも話してないことなの――だから、鏡音君のお姉さんにも、ミクオ君にも、話さないでいてほしいの」
意を決した口調で、巡音さんはそう言った。初音さんにも話してないって……。
……つまり、それだけ信頼されているということだ。
「わかった。誰にも言わないよ」
「わたしね……前にも話したと思うけど、姉が二人いるの。上の姉がルカ姉さん。わたしより七つ上で、何でもできる完璧な人なんだけど……何ていうか……完璧すぎるのよ」
七つ上ってことは、俺の姉貴より一つ上か。完璧すぎる?
「どういうこと?」
「えーとね……わたしたちが今通っている高校に、ルカ姉さんはやっぱり中学の頃から通っていて、中高六年の間、ずっと学年トップの成績を取り続けていたの」
ちょっと待て。俺たちの通っている学校で、中高六年間トップの成績って……桁外れだな。ランクの高い進学校だから、トップを維持するのはかなり大変だ。俺だってこれでちゃんと勉強はしてるんだよ。
「それはただ単に勉強が得意なだけなんじゃ……」
「ルカ姉さんはね、絶対に間違ったことはしない人なの。お作法も立ち居振る舞いも完璧で、どこに出しても褒められる人なのよ。言いつけはいつもきちんと守って、寄り道なんてしないし、門限もしっかり守るし、服装だって一筋の乱れも無いし……」
俺は自分の姉貴が、そんな人間だったらどうだったかと想像してみた。成績がものすごく優秀で、いつも真面目に机に向かっていて、家事をパーフェクトにこなしていて、なんでもちゃんとやれる姉貴だ。……まず間違いなく息が詰まるな、姉貴がそんな人間だったら。
「寝転がってテレビ見ながらおせんべい齧ってたりとかは……」
「そんなお行儀の悪いこと、絶対にしないわ」
俺は生まれて初めて、自分の姉貴が適度にいい加減な人間であることを感謝したくなった。あ、言っておくけど、仕事とかはちゃんとやってるよ。ただまあ、寝転がってテレビ見ながらおせんべい齧るのはよくやってる。仕事が忙しい時期だと家事も手抜きになるし……。……ま、俺もだけどね。うるさいな、いいんだよ。綿埃程度で人間死んだりしないって。
「わたしの記憶の中のルカ姉さんって、いつも机に向かってるの。お勉強をしているか、本を読んでいるかのどっちかで。その本も、小説とかじゃなくて、何かの専門書みたいな難しい本ばっかりだし……」
「そのお姉さん、趣味は?」
「……多分、無いわ。趣味だけじゃない。わたし、ルカ姉さんが友達と一緒に出かけるところも、友達が遊びに来たところも、見たことがないの。出された食事はなんでも残さず食べるけど、ご飯の好き嫌いを言ったこともないわ。着る物はファッション雑誌のコーディネートそのままって感じだし」
い、異常だ……そのお姉さん、本当に人間か? 姉貴はちゃんと友達がいるし、今はともかく、学生の頃は結構友達が遊びに来ていた。さすがに食事を残すような真似はしないが、好物はちゃんとある。着る物にはこだわりがあって、結構うるさい。
「人間というよりロボットなんじゃ……」
俺は思わずそう口にしてしまい、それからはっとなった。以前、巡音さんは「好きや嫌いという感情のない人間って想像できる?」と訊いてきた。あれは、そのお姉さんのことだったんだ。
確かにロボットだよなあ。情熱も無ければ魂も無く、だ。……でも、作られたロボットじゃなくて、巡音さんの血の繋がったお姉さんなわけで。そりゃ、巡音さんじゃなくても頭が痛いよ。
「確かにちょっとそんな感じがするの。……完全にロボットってわけでもないみたいだけど」
巡音さんは沈んだ口調でそう言った。う、うーん……俺にはかける言葉がみつからない。そんなハードなお姉さんがいるとは思わなかった。
でもポイントは、お姉さんのことじゃなくて、巡音さんのことだよ。
「それで、お姉さんが異常なのはわかったけど……巡音さんは何を悩んでるの?」
「……わたし、ルカ姉さんが何を考えているのかが知りたいの。だから、それを訊いてみようとしたんだけど……何だか全然ちゃんとした話にならなくって」
どうも状況がわかりにくいなあ。
「どういう感じ?」
「わたし、ルカ姉さんになったつもりで返事するから、鏡音君、何か話しかけてみて」
巡音さんはそんな提案をしてきた。何か話しかけてって……何でもいいのかな。俺は辺りを見回した。景色についてでも話してみよう。
「うーん……じゃあ、木の葉が赤くなってるね」
「……そうね」
淡々と返事する巡音さん。……うわ。
「紅葉は好き?」
「……嫌いじゃないわ」
「そこに鳥がいるよ」
「……そうね」
「多分キジバトだと思うけど……」
「……キジバトなんだ」
「キジバトって首のところに縞模様があるんだよ。あれで見分けがつくんだ」
「……そう」
「あの……俺と話すのそんなに嫌?」
「……いいえ」
「じゃ、なんでさっきから返事全部一言なの」
「……さあ」
「じゃ、俺と話していて楽しい?」
「…………」
げ……全然話が繋がらないぞ。ああ、なるほどね。こりゃ本当にロボットだ。
あれ? でも考えてみたら、巡音さんもこんな感じになる時があったよな。ここまでではないけど、近いっちゃ近い。いつの間にかそういう応対はしなくなっていたから、以前のことは忘れかけてたけど。だって、嫌なことよりいいことの方が、思い返してて楽しいしさ。
「ストップ。シミュレーションはもういいよ。なんとなくわかったから」
これ以上、ロボットの真似をしている巡音さんと話すと疲れそうだ。
「本人を見ないでこういうことを言うのは、本当は良くないんだけど……そのお姉さん、多分、何も考えてないと思う」
学年トップを維持していたってことは、頭自体は良いんだろうなあ。おそらく、機械的に何も考えずに勉強していたんだろう。
「やっぱり……そうなのかな……」
巡音さんは淋しそうにそう言った。……多分、巡音さんにも答えはわかっていたんだろう。でも、自分の姉がそんな状態だってのを、認識するのが嫌だったんだろうな。それは仕方がないかもしれない。
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