わたしは結局悩みを追い払うことができなくて、その日の目覚めもすっきりとはいかなかった。鏡を見て、ため息をつく。暗い表情ばっかりしていたら駄目なのに。他の人を心配させてしまう。
朝食を食べて――ルカ姉さんは、いつもと同じように「おはよう」ぐらいしか言わなかった――学校に向かう。自分の教室に入って席に座ったけれど、本を読む気になれない。これからどうしよう。いい加減、頭を切り替えなくちゃ。鏡音君だって登校してくるわけなんだし……。
「おはよう、巡音さん」
あ……もう来ちゃった。とにかくちゃんと話をしないと。ハク姉さんがわたしの部屋まで謝りに来てくれたの、鏡音君とお姉さんのおかげなんだし。
「あ……おはよう、鏡音君」
わたしは鏡音君の方を向いた。鏡音君が、ちょっと困ったような顔をしている。わたしはなかなか鏡音君の方を真っ直ぐ見る気になれなかったけど、逃げていても仕方がないので、頑張って顔をあげる。
「あの……ありがとう」
「……え?」
「ハク姉さん、昨日、わたしの部屋まで来てくれたの。引きこもってから、ハク姉さんがわたしの部屋に入ったのって初めてで……鏡音君とお姉さんのおかげだから」
どうやってなのかはわからないけれど、鏡音君のお姉さんが、ハク姉さんの気持ちを、わたしと話そうという方向に向けてくれたのは確かだ。そして、お姉さんに相談することを提案してくれたのは鏡音君だ。
「巡音さん、何かあったの? お姉さんと話ができた割に、なんだか落ち込んでるみたいだけど……」
鏡音君はわたしにそう訊いてきた。……やっぱり、わかっちゃうんだ。でも、どうしよう。鏡音君に昨日わかったことを話すとなると、今度はお母さんのことから話していかなくてはならない。そこまで話してしまっていいものだろうか……。
「話してる間に、また喧嘩でもしたの?」
「いえ、そうじゃなくて……何て言ったらいいのか……」
どうしよう。話す? 話さない?
「あ、あの……鏡音君、その前に、わたし、ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
「何?」
「あの……わたし、鏡音君に、何かした?」
訊いても、鏡音君が正直に答えてくれるかどうかはわからない。優しい人だから、わたしを気遣って本当のことは、言わないかもしれない。でも、わたしは訊かずにいられなかった。
「え?」
鏡音君は一瞬驚いた表情になって、それからしまったと言いたそうな表情になった。あ……藪を突付いてしまっただろうか……。
「ほ、ほらあの……昨日、わたしたち、ちゃんと話せなかったでしょ。もしかしたら、わたし、自分で気がつかないうちに何か言うかしてしまったんじゃないかなって思って……わ、悪いところは、ちゃんと直していかないと……」
「別に巡音さんは何もしてないって」
鏡音君はそう言ってきた。その言葉を信じたいけれど……。
「でもわたし、鏡音君の前で倒れたり、パニックになったり、お財布忘れてお昼おごってもらったり、ややこしい相談に乗ってもらったり、色々あったし……」
これだけ積み重なったら、何か些細なきっかけ一つで、愛想をつかされてもおかしくないような気がする。
「倒れたのもパニックになったのも不可抗力だったわけだし、巡音さんのせいじゃないってば。昼飯の件は、クッキー貰ったからいいよ。相談の方は……あー、えーと……」
鏡音君は、そこで口ごもってしまった。
「あの……」
「いやだから、気にしなくていいって。俺大して役に立てなかったし」
え……いやだ、どうしよう。そんなつもりで言ったんじゃなかったのに。
「そんなことないから!」
気がつくと、わたしは勢い込んでそう口にしていた。自分の取った行動に、自分でも驚いてしまう。わたし……。
鏡音君の方は、驚いた表情でわたしを見ている。どうしよう、何か言わなくちゃ。
「あの……鏡音君が役に立たなかったってことは、ないから。鏡音君と話したおかげで、整理できた部分もあるし、鏡音君がいなかったら、鏡音君のお姉さんがハク姉さんのことを知らずにいて、ハク姉さんと話もしなかっただろうから……」
わたし、何を喋っているんだろう。自分でもよくわからない。
「あ、うん、ありがとう、巡音さん。俺としてもちょっとほっとした」
鏡音君は落ち着いた声で、そう言ってくれた。嫌われてたわけじゃ、なかったんだ……。安心感で胸がいっぱいになる。
あ……やだ、頬が熱い。わたしはまた下を向いてしまった。
「巡音さん、また放課後話せる? もうじき先生来るだろうし」
「うん……大丈夫」
わたしは頷いた。明るく……とはいかなかったけれど、少なくともちょっとだけ上向いた気分にはなれた。
放課後になった。教室には、わたしと鏡音君が残っている。
「巡音さん……何から話す?」
何から……話したらいいんだろう。話しにくいことからの方がいいかもしれない。
「あのね……わたし、昨日、ハク姉さんと話をしたんだけど……ハク姉さん、ルカ姉さんとは関わらない方がいいって言ったの」
わたしは、そう切り出してみた。
「巡音さんはどう思うの?」
鏡音君は真面目な表情で、そう聞いてきた。わたしがどう思うか……。わたしがどう思ったかを説明するには、前提をもう少し説明した方がいいかも。
「その前に、今まで黙っていたことを一つ話すけど……黙っていたと言っても、隠していたとかじゃなくて、今までそんなに意識してなかったってだけなんだけど……」
言いながら、言い訳じみてるなと自分でも思う。実際言い訳よね。でも、自分の親の離婚暦のことなんて、人に吹聴して回ることじゃないもの。
「わたしとルカ姉さん……血の繋がった姉妹だけど、半分だけなの。お母さんが違うのよ」
鏡音君が驚いた表情になる。……やっぱり、驚くわよね。
「ハクさんって人とは、お母さんも一緒なの?」
訊かれたので、わたしは頷いた。
「ええ。それで……昨日ハク姉さんと話していて、その時、小さかった頃の話とかも出たりして……わたし、思い出したの。ルカ姉さん、昔からいつもわたしたちによそよそしかった。もしかしたら、お母さんが違うからだったんじゃないかって……」
説明しながら、わたしの気分は沈んで行った。……お母さんがわたしに、この話をしてくれた時のことが思い浮かぶ。
あれは、高校の入学式の前の日だった。お母さんはわたしに「大事な話があるの」と言って、わたしとは血の繋がりが無いことを明かした。ショックで言葉も出なかったわたしに、お母さんは「いきなりこんなことを告げてごめんね。でも、リンの高校は修学旅行で海外に行くでしょう? パスポートを取るには戸籍謄本がいるから、あれを見て知ってしまうよりも、直接お母さんの口から話した方がいいと思って」と、少し淋しそうに言ったんだ。
ハク姉さんやルカ姉さんが、お母さんとは血の繋がりが無いことはなんとなくわかっていた。ハク姉さんはよくそのことで喧嘩をしていたし、お母さんのことを「カエさん」としか呼ばない。ルカ姉さんも、時々そう口にすることがある。それに口の軽いお手伝いさんが、お父さんは離婚して再婚してどうの、と話していたのを聞いたこともあった。そういった話をまとめれば、大体のところはわかってくる。
でも、わたしの記憶にあるお母さんは、今のお母さんだけ。だから自分がお母さんの本当の娘じゃないだなんて、わたしは考えたこともなかった。
何も知らずにお母さんに甘えていたわたしは、そのことで姉さんたちを傷つけていたんだ。ルカ姉さんもハク姉さんも、きっと面白くなかっただろう。ハク姉さんは、わたしに裏切られたって思ったかもしれない。そしてルカ姉さんにとっては……。
「『シンデレラ』っておとぎ話があるの。知ってる?」
「……ああ」
「わたし、小さい頃、あの話が大好きだった。お母さんのところに絵本を持って行って、何度も読んでってせがんだわ。……あの頃は何もわかってなかったから」
自分もいつかお姫様になれるんだって、無邪気に信じていた。たわいもない、子供の夢。でも……。
シンデレラは継母にいじめられた。多分……ルカ姉さんも、同じ目に遭ったんだ。あの物語が必要なのは、わたしじゃなくてルカ姉さんの方だった。ルカ姉さん……どんな気持ちだったんだろう。自分をいじめた継母の娘が、無邪気に目の前ではしゃいでいて。
「シンデレラってね、ペロー童話とグリム童話の両方に入っている話なんだけど、その二つで少し違うの」
「眠り姫みたいに? なんかペローの方だとえぐい後日談がくっついてるんだっけ」
訊かれたので、わたしは頷いた。
「ええ。シンデレラだと逆で、ペローの方が話がおとなしいの。ペローではシンデレラ――フランスの話だから、サンドリヨンと呼ぶべきかもしれないけど――は家族を許して、二人の姉も身分のある人と結婚するわ。でもグリムの方だと、姉二人は許してもらえないの。鳥に目をつつかれて、盲目になってしまうのよ」
それ以外の話でも、大体似たような結末が待っている。虫になったり、殺されたり。
「ルカ姉さんは……多分、わたしとハク姉さんのことが、嫌いなのよ。わたしたちが、ルカ姉さんを苦しめた人の娘だから。ルカ姉さんその感情から逃げているから、見えてこなかっただけ。わたしがルカ姉さんと話をしたいなんて思うこと、それ自体が傲慢だったんだわ」
わたしの存在自体がルカ姉さんを傷つけているんだ。……涙がこみ上げてきた。こらえようと、きつく唇を噛んで、自分の手の平に爪を立てる。泣いたら駄目だ。
わたしとハク姉さん、どうして生まれて来たのかな。せめてわたしだけでもいなければ、もっと状況は良かったのかもしれない。
「……わたし、生まれてこなければ良かった」
「そんなことは言うもんじゃないよ!」
鏡音君が不意に大きな声を出したので、わたしはびっくりして顔をあげた。
「巡音さん、そういうことは言ったら駄目だよ。初音さんが聞いたら、きっと悲しむ」
「ミクちゃん……?」
どうしてここでミクちゃんが出てくるの……?
「生まれてこなければ良かったって思うことは、巡音さんが今まで初音さんと過ごした時間を全部否定することと一緒だろ。それに大事な友達が、自分の存在を否定するようなことを言っているのを聞いたら、初音さんはショックなんじゃないか。もし巡音さんが思いつめて病気になったりしたら、初音さんはきっと自分を責めるよ。あんなに近くにいたのに、自分は何もしてあげられなかったって」
鏡音君に言われたことを、わたしは考えてみた。ミクちゃんは、小さい頃からの仲良しで、いつも一緒にいてくれて、わたしのことを元気づけてくれた。確かにわたしが病気になったら、ミクちゃんは悩むだろう。……ミクちゃんを苦しめるようなことはしたくない。
わたしがいたらルカ姉さんが傷ついて、わたしがいなくなったらミクちゃんが苦しむかもしれないの? じゃあ……わたし、どうしたらいいの? ルカ姉さんをこれ以上傷つけるのは嫌だけど、ミクちゃんが苦しむのはもっと嫌だ。
「初音さんだけじゃない。俺だって、巡音さんと話をしたり出かけたりできて楽しかったよ。だから、それを丸ごと否定するのはやめてくれよ。姉貴だって、多分そう思ってるから、ハクさんを説得することを引き受けたんだろうし」
え……わたし、そんな風に思われていたの? ……なおさらどうしたらいいのかが、わからなくなってしまった。
「わたし、どうしたらいいの?」
わたしはわからなくなって、思わずそう口にしてしまった。口にしてから後悔する。こんなことを訊いても仕方がないのに。
「巡音さんは、初音さんや俺と一緒にいたくないの?」
鏡音君は、そう訊き返してきた。一緒にいたいか、いたくないかで訊かれれば……わたしは、一緒にいたい。でも、わたし、そんなことを願っていいの?
「……一緒にいたいわ。けど……」
「だったらそれでいいんだよ」
鏡音君はわたしを遮って、きっぱりとそう言い切ってしまった。
「誰にだって人生を楽しむ権利ぐらいあるよ。だから俺や初音さんと一緒にいて、楽しいって感じることを後ろめたく思わなくてもいいんだってば」
鏡音君の言うことは、正論なんだと思う。正論なんだと思うけれど、わたしは頷くことができなかった。
「もう、お姉さんのことを気にするのはやめなよ。巡音さんは巡音さんで、お姉さんはお姉さんなんだから。巡音さん、できそうなことは全部やってみたんだろ? だったら、そこから先はお姉さんの責任だよ」
「ルカ姉さんのこと……見捨てた方がいいってことなの?」
変だな……わたし、ルカ姉さんに関わったらいけない立場のはずよね。わたしがルカ姉さんに何かするのは、ルカ姉さんを傷つけるだけだろうから、近づいたらいけない。見捨てるのと取る行動は同じはずなのに……そうすることを考えると、罪悪感のようなものがこみ上げてくる。
「……そこまではさすがに言わないよ。一応家族なわけだし……だからさ、この先、お姉さんが助けを求めてきたら、その時は助けてあげればいいんじゃないかな」
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