昔のことは、覚えていない。
 別に思い出す気にもならないからそのことと自体は良いんだけど、私の中にはいつまでも消えない何かが居座っているらしい、と気付いたのは結構前の事だった。
 思うに、一番最初に私の背中を押したのは、きっとそれだったんだろう。


 殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。

 それは間断なく私に囁く。

 殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。


 そして、今の私はその声にこう答える。

 ―――焦らなくても大丈夫だよ。

 そんなに急かさなくたって、私はもう知っている。
 人を刻む楽しさ。人を貫く喜び。絶望の叫びの馬鹿馬鹿しい綺麗さとか、後ずさる仕草の滑稽なくらいの可愛らしさ。そういうのを全部知っている。
 うん、ミクちゃんには本当に感謝してもし足りないと思う。だってミクちゃんの所に来なければ、生きるためにあれこれ考えなくちゃいけなかったかもしれない。或いは、煩わしい人間関係に時間を割かれていたかもしれない。
 少なくとも、こうしてどうやって人に―――今はこの間出会った「彼等」に―――致命傷を負わせるか考えるだけでいい、なんて生き方はできなかったもんね。ミクちゃん、ほんとにありがとう!
 心の中で頭を下げてから、また考えに戻る。傷も塞がって感覚も戻ってきたし、体を動かしてシミュレートしてもいいかも。
 立ち上がって軽く地面を蹴る。よし、オッケー。
 そこで私は顎に手を当てて考え込んだ。
 ふむ、次の戦法はどうしよう。
 自分の手で息の根を止めるのがやっぱり一番魅力的だけど、別にそれじゃなきゃ嫌って訳でもないし。そういえば一度は爆弾とかも使ってみたいな。大掛かりな奴じゃなくて、手榴弾とか。閃光弾は使ったことがあるけど目くらましとしてだし、イマイチなあ…

「むむう」



 唸った時、がちゃりと扉が開く音がした。



「お邪魔します」



 ミクちゃんだ!
 私は嬉しくなってドアに駆け寄る。

「いらっしゃい、ミクちゃん!」
「はろー、リン。今日はお土産持ってきたの」

 ぺい、と投げ渡されたのは、薄汚れた腕章。表面には風車を連想させるような図柄が書いてある。
 どこかで見たことがあるような…

 …あ、そうか。


「これってもしかして特警の」
「そう、特警の腕章。拾って来ちゃったの。もしかしたらリンが興味を持つかと思って」
「うわあ、ありがとう!なんか、売ったら高値が付きそうだよね」

 実際そんな事をしたら直ぐさま足が付いてしまうだろうけど、ちょっとやってみたい気もする。だって向こうから私を狙ってくれるんなら、こっちから殺しに行く手間が省けるもんね。
 暫くそれをひっくり返したり引っ張ってみたりしていると、ふと表面に描かれている模様に目が止まった。
 かちっ、と折れ曲がった線の交差。規則正しいその感じは、確かに特警に良く合っている気もする。
 正確には、特警の理想に。

「ねえミクちゃん、このマークって何か意味があるの?」
「あるわ。十の先が左に折れていたなら『まんじ』と読むのよ。功徳の証で、寺のマークとして知られているわね」
「お寺?…似合わない…」

 あの黒集団を思い出して、顔をしかめる。
 明らかに西洋的集団なのに、何でそんな東洋風な印を使っているんだろう。単に好みなのかもしれないけど。
 ミクちゃんにそう疑問を伝えると、ミクちゃんは一つ笑みを零した。

「東洋風。確かにこちらは東洋ね。でもねリン、これは鏡映しにすると、随分と違う意味を持つようになるの」
「鏡、映し?」
「そう」

 すらすら、とミクちゃんがさっきの…まんじ?の隣によく似た図形を書く。ただし、今度は十字の先が 右に折れて、少しだけ斜めに傾いていた。
 どう違うっていうんだろう。見たところ殆ど違いなんてないのに。

「…?」
「これは、スワスティカ」
「す?」
「分かりやすい言語に直すなら、ハーケンクロイツ。鉤十字」
「はげ?…それ、何?」

 私の言葉に、ふふ、とミクちゃんが微笑んだ。でも付き合いも短くないし、その笑顔に少しだけ嘲笑が混ざっているのには当然気が付くよ。
 私が笑われているのかな。…ううん、違う。ミクちゃんは、もっと遠くの、もっと広い何かを嘲笑っている。
 まるで世界を統べる女王様が、バルコニーの下に額付く臣民を嘲弄するかのように。

「スワスティカはかつて、幸運のシンボルだった。でも、ある大きな出来事を経てからはその座を追われたの。今やこれは忌まれる図形だわ。哀れなことね」
「ふうん…?」

 忌まれる図形、その言い方になんだか親近感が湧いて、私は改めて隣同士に並んだ二つの図形を眺めた。
 書かれた布地を真ん中で折ればぴったりと重なる二つの図形。
 でもそれは決して同じ図形ではなく―――…



 ―――えは、



 え?



 ―――おまえは、こちらだ。



 大きな掌が、それを指差す。

「―――こちら…」

 無意識に復唱する。
 誰の声だか分からない。聞き覚えがあるような、ないような、記憶の中の曖昧な部分から立ち上る低い声。
 私は、紙にもう一度目を落とした。



 ―――お前は、こちらだ。





「リン?」

 ミクちゃんの声が、遠くから聞こえる。

 …あれ、ミク?ミクって誰だっけ?
 私の世界にいるのは、私と、この人と、ここにいない「彼」だけ。でも、ここにいなくても繋がっているんだって。そうなんだって、この人が言ってた。
 それは絆。それは祝福。それは呪い。
 「彼」が、こちら。私が、こちら。そういうふうに出来ているんだって。

「…私達は、鏡映しだから…」



 鏡映しだから、同じにはなれない。



「…リン、どうしたの?」
「へ?」

 ミクちゃんの声に、私は目を数回しばたたかせた。
 何だろう、ぼんやりしていたのかな?今、何か大切なことを考えていたような気がするんだけど、何を考えていたんだか思い出せない。
 でも、忘れるってことはそんなに大切じゃないって事かな?ならいいか。

「あ、ごめんね、なんかぼんやりしてたみたい」
「…なら良いんだけど。万一リンが体調を崩したりしたら、私の計画は全ておじゃんね。かなりリン頼みだから」
「えっ、そうなの!?」

 そんな事言ってもらえるなんて予想外で、私は勢いよくミクちゃんを振り返った。
 なんだろう、こんなに面と向かって頼られている発言をされるなんて考えてなかった。嬉しいというよりは驚いた。
 …失礼かな?でも、取り繕うのは性に合ってないし…まあ、大体ミクちゃんはこんな事じゃ怒らないか。

「そうなの。はい、これ」

 ぴらり、と差し出された封筒。それが何を意味するのか分かって、私は目を輝かせた。

 任務だ!

「今回はパーティー会場よ」
「パーティー!人が一杯いそうだね、みんな私のにしちゃっていいの?」

 私は勢い込んで身を乗り出す。
 ミクちゃんは「ケーキを独り占めするときみたいな言い方ね」と例えてから一つ頷いた。
 その可愛らしい笑顔が、暗い毒を帯びる。

「好きなだけ殺しなさい」
「やったあ!全滅の記録更新に挑戦してみようかな、それとも一人ずつ…あ、でも人が多いのにそんな事したら自殺しちゃう人も出そうだよね、ダメか。じゃあ行動不能にして」
「そこにも注意として書いてあるけど、逃走経路は幾つか確保しておいてね」
「えー…はーい、確保してから行きます」

 私が了解の意を示したのを確かめて、ミクちゃんは席を立つ。
 ぱたん、と扉が閉まったのを確かめて、大急ぎで封を開ける。日付は三日後…そんな、待ち切れないよ!
 今から楽しみで楽しみで仕方ない。どうかな、骨のある人が少しは入っているのかな?それともお手軽に摘めちゃう羊さんばっかりなのかな。どっちでも楽しいんだろうな、ああ、早く行きたいな!
 ぎゅう、と指令書の入った封筒を抱きしめる。
 もしかしたら、パーティーの招待状を手に入れたシンデレラもこんな気分だったのかもしれない。或は良く言う、遠足前の小学生みたいな感じ。
 わくわくして、どきどきして、待ち切れない。駆け出したい。

「ふふふ」

 もしかして警備に特警が駆り出されていたりしないかな。どうも重役達のパーティーみたいだし、私が狙いそうだなんてことは簡単に想像がつきそうなものだけど。

「来ないかなあ…あの子」

 今なら女の子向けアニメの主人公の気分が分かる。
 会えるかな?会えないかな?そんな事を考えながら朝の道を歩くヒロイン。
 正にそれだよね。会いたいな。出来たらその先にも進みたいな。具体的に言うと、その、…殺し合い、とか!剣かな?銃かな?どっちも扱い慣れていそうだもんね。
 きっと無駄な言葉を重ねる必要はない。何も言わなくても、あんな憎悪の目で見たってことは、彼は必ず私を殺しにやってくる。やっぱり集中された敵意っていいなあ、向けられていると幸せな気分になれるもんね。早くおいでよ、叩き潰してあげるから!
 あの剥き身の感情を叩き付けられることを想像するだけで体が震える。
 強いんだよね?強いんだよね?いいんだよ、私の事を幾ら傷つけたって。私は笑顔であなたを殺してあげる。

「ううう、楽しみだなあ…!」

 ふにゃり、と緩んだ頬を頑張って引き締めながら、私は床に転がった。







 かつかつかつかつ。
 硬質な足音がアスファルトを進んでいく。
 リンの元から去ったミクは、階段を上り切ってすぐに携帯電話を開いて耳に当てていた。
 通話相手は不明。ただし、ミクに対して心底服従しているのが分かるような話の運びだった。
 ミクは冷たい声で電話の向こうに短く告げる。

「明日にでもメイコを寄越して。良いわね」

 そして、相手の言葉を聞かずに直ぐさま通話を終了する。

 ぽい、と無造作に携帯電話を鞄に投げ込んだ姿は、どこにでもいるごく一般的な休日の学生の姿にしか見えなかった。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

異貌の神の祝福を 3.R

右まんじと左まんじがあるのですが、それはどっちも仏教用語(?)です。
同じ原理のもとで作られた模様が、スワスティカ。

ビバ現実逃避!

閲覧数:1,162

投稿日:2011/01/17 22:18:48

文字数:4,109文字

カテゴリ:小説

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  • なのこ

    なのこ

    ご意見・ご感想

    がんばれば、一緒になれるよ!ブクマもらいますね

    2011/03/16 20:35:22

  • 翔破

    翔破

    コメントのお返し

    読んで下さってありがとうございます!
    …くっ、バレてしまったか…!
    今回は「ジェバンニするぜ!」を目的に書き始めたので、結構リンにしろレンにしろ自由に動いています。
    その分最後がどうなるかも不定なのですが、一応考えている形に収まればいいな、と思っています。
    宜しければ最後までお付き合いください!

    2011/01/20 22:34:52

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