お互いに相手の命を握っていると言ってもいいような高揚感の中、さわり、と風が吹く。
私たちの影の落ちた砂利道の上に、彼の黒い帽子がふわりと落ちた。
覗いた顔はとても端正で、でも…
私は一度瞬いた。
…斬られたみたいな傷痕と、片目を隠しているみたいな眼帯。
…まるで、潰れた目を隠しているかのように…
突然一つの情景が頭の中を横切る。
それは一瞬のフラッシュバックのようなもので、捕まえる前に意識の網を擦り抜けてあっさりと消えていく。
でも、そう、あれは。
血の香りと赤い色。
痛い、行かないで、と泣く声。
(「離れたくないなら、繋がる努力をしなさい」)
(「そうすれば、またお前達は巡り会う」)
赤、赤、赤、血、赤、赤、血、血、血。
必死に見つめた先にあったのは…それで。
…ああ。
なんだ、そういうことだったんだ。
思い出す、というほどは記憶がしっかりしていない。でもなんとなく掴もうとした指先に引っ掛かったのは、昔の影。
でも私は、そのちょっとした断片をしっかりと捉えた。
そっか、彼が…彼のこの記憶が、私が人を殺したきっかけだったんだっけ。
私は血を見ると安心する。嬉しくなる。
だって、血生臭い記憶が最後に見た彼の姿だったんだから、当然なんだ。
私はただ―――彼と繋がっていたかっただけだったんだ。
かつての私にとって、彼が唯一つの光だった。
いつの間にか忘れてしまっていたけれど…
「リン?」
私の名前を呼ばれたから、私もそっと口を開く。
声が随分低くなったな、と思う。それでも世間的にはボーイソプラノって言うか、高めの声なのかもしれない。
理由が繋がるのとともに、懐かしいその名前も思い出していた。
「…レン?」
試しに口に出してみると、レンの瞳がどこか虚ろに私を見た。
信じられない。そう思っているんだと思う。
私だってそう、まさかこんな場所でレンに巡り会うなんて思ってなかったよ。
こんな、死の香りに満ちた世界で―――
―――殺す相手として出会う、なんてね。
彼の顔から目が逸らせない。
言いたいことや聞きたいことが頭の中で渦巻いて、でも結局どれが尋ねていいことなのかわからない。
ん?なんかおかしいなあ、尋ねちゃいけないようなことなんてそうそう無いはずなのに。だって私達、姉弟なんだから。
…そうだよね?
答えを求めて、私はレンの顔を見つめる。
むかしむかし、私達がまだ分かたれていなかった頃は私そっくりだったはずのその顔。
でも今はなんだか知らない男の人みたい…そう、なんて言うか、レンは「男の子」っぽくない。大人っぽいっていうか、子供の甘さがないっていうか、削ぎ落とされた鋭利な感じがする。
もしかしたら、着ているのが軍服に近い特警の制服だってことも関係しているのかもしれないけれど。
「特警」。
その言葉を頭に浮かべた瞬間、背筋がぞわっと粟立った。
―――殺したい。
喉が渇いて渇いて仕方ないのと同じような強さで、体の奥から溢れてくる声。
煮え立つようなそれが、早く目の前の首を刎ねてしまえと急かしてくる。そしてそれを客観的に感じる、もう一人の私がいる。そっちの私は、レンを殺したくないと思っているみたい。
あれ?なんか変。いつもと違う。
私はレンを殺したい。うん、間違いなく殺したい。
例え始まりがどうであれ、今の私にとっては人殺しは気持ちのいい事でしかないから。だから、震えるような一瞬の喜びを求めて死を求めているんだ。
まあ、でも冷静に考えてみたら、それは殺したいに決まっているよねえ。
レンを殺したら他の人の時とは比べものにならないくらい快感なのは、言うまでもないもん。
殺したい。
でもこれはレン。
殺したい。殺したい。殺したい。
でもかれは、わたしの、
殺したい。
殺したい殺したい殺したい。
きっと中身は綺麗な桜色。吹き出す血潮は熱くて綺麗、でも駄目、待って、考えたい。
ごりって手に当たる感覚も楽しみ。いやだよやめて、どうしてそんなこと考えるの?ううん、思い煩うことなんてない、目の前にいるんだから何も考えずに殺してしまえばいい!
だけど彼はレンなのに、でも会っても直ぐ分からないような誰かさんなんて、私を殺そうとする誰かさんなんて、仮に兄弟だったとしても躊躇う必要はないよね?
殺そう殺そう、この刃先を思い切り引けば世界が綺麗な赤に染まる。私のだあい好きな鉄の味が香る。
でもでもでもそんなことしたら私はきっといつか後悔いいじゃんそんなのそんなのはそのいつかが来たら考えればいいよ今はほらこのうえをみたそうしょうどうに身を任せよう目の前にやっと手に入れたきかいがあるのにのがすなんて勿体ない骨を砕いて肉を裂いて首を掌に乗せて腸を踏み潰して腕をちぎって血で彩って殺そう殺そう殺そう―――
歓喜に狂いそうな私が脳内でこんなに騒々しく騒ぎ立てているっていうのに、体の方は頭の中の狂騒から切り離されている。
頭の中が混乱しすぎているから、上手く体の方に命令が届いていないのかもしれない。うわあ、何て事だろう。
手にした刃が、凍り付いたみたいに動かせない。
どうして?
…違う、私、どうしたいんだろう?
頭の中が真っ白になる。ぐちゃぐちゃに思考が縺れる。
頭では分かってる。何か言わなきゃ。レンに会えたんだから。
でもそれ以上に細胞の一つ一つが叫ぶ。言葉にならない言葉が集まって、縒り合わさって、私を衝き動かそうとする。
言葉なんていらない。思考なんていらない。
殺せ。
さあ、殺せ。
もっともっと、私に快楽を!
「…あ」
闇に響いた声が自分のものだと気付くのに、暫くの時間が掛かった。
―――ころそう。
「…あ、あああ…」
かた、と私の刃先が震える。
刃の先が首筋に当たったのか、レンの首筋がびくりと震えた。そのせいで、更に刃に首が当たる。
指先に伝わる、余りにも慣れた感覚。
その先にあるのがどれだけ酔えることなのか、私は嫌というほど良く知っている。
もう、歯止めは利かなかった。
殺そう!
殺そう!
殺そう!
殺そう殺そう殺そう殺そう殺そう殺そう殺そう殺そう殺そう殺そう殺そう殺そう殺そう殺そう殺そう殺そう殺そう殺そう殺そう殺そう殺そう殺そう殺そう殺そう殺そう殺そう殺そう殺そう殺そう殺そう殺そう!
切り刻んで!叩き潰して!捩切って!少しずつ少しずつ命を奪おう!彼はとても声がいいから、苦悶する声も姿も凄く楽しみ。希望を一つ一つ叩き折って、最後に残った縋れるものさえ遠くに放り投げてあげよう。壊れちゃうかな?レンも所詮、人だもんね。どれくらい脆いかなあ、さあ、ちょっとそれを確かめさせて貰おう!私の狂気にレンは堪えられるの?堪えられるにしてもどれだけ堪えられるの?きっと他の人よりは耐えられるよね?私の全てを受け止められるのかなあ?ねえねえねえねえねえねえ、ちょっと殺させてよ…いいよねっ、レン!
頭の中の声が喜々として叫ぶ。
ゆっくりと理性的な考えを押し潰していくそれが、喜びに打ち震える。だってそうだよね、これでやっと渇きが癒やせるんだもん!
ああ、ずっと貴方を殺したかったんだよ、これでやっと私の願いが叶う!
―――…願い?
今までこの瞬間が堪らなく心地良かったのに、私の中の「まとも」な何かは初めて私自身が怖くなった。
ううん、今までそんな何かを感じたことなんてなかったから、レンに会って初めて生まれて来たのかもしれない。
願い?
私の願いって、なに?
人を殺すこと?
…レンを、殺すこと?
レンを!?
焦った私の一部は、全力を振り絞ってレンの瞳に意識を集中させた。
そこに何か縋れるものがあるんじゃないか、そんな風に思って。
でも当然といえば当然、そこに何があるわけでもなかった。敢えて言うなら、呆然としたような空白しか見て取れなかった。
時間が経つにつれてその青い目の中に少しずつ溢れて来る、正義感と私への憎悪。私達を包む闇より暗い負の感情。私を押し流そうとしているのと良く似た、暴力的な渦。
そこにはほんのひとかけらの正気―――自分を制御できない戸惑いと焦りも見て取れるけど、余りにも圧倒的な感情に巻き込まれてどうしようもないまま消えていく。
きっと私もそう。
良く似た顔をしている。
不意に、ふつり、と何かが切れた音がした。
それは私の中だけでなく、レンの中からも。
目を見れば分かった。その、私達を硬直させていた…殺し合いを止めようと必死になっていた何かが、圧力に負けて切れてしまったんだってことは。
不思議と静かな気持ちで、私達は最後に視線を交わした。
確かに何かが通じ合った、そんな感覚。でもそれはけして優しい何かじゃなくて。
(ああ、当然かな)
…タイムオーバー、だ。
溢れるものに押し流される間際、私は心の中で酷く冷静に考えた。
「けして同じものには、なれない」。
そうかなあ?
私はきっと、化け物で。
彼もきっと、化け物で。
…うん、人間に戻るには、再会するのが遅すぎたんだよね。
嬉しい、と、悲しい、が混ざり合う。
きらり、月の光に輝いたのはレンの目から零れた雫。そして、私の目から零れた雫。
レンの目にはちゃんと私が映っていた―――レン、私の気持ち、最期だしちゃんと理解してくれたかなあ?
理解してくれたのなら、ちょっと、嬉しいかも…
私達は小さく微笑んだ。
絆は確かに消えていなかった。
でもそれは、私達を止めるには…余りに甘くて儚くて。
互いの刃が引かれる。
生暖かい風に、気怠い夜の闇に―――血の匂いが満ちた。
異貌の神の祝福を 8.R
本編はここまで!
後はこの裏面でのめー姐さんとミクちゃんの語りで幕切れとなります。
ふう…まさかここまで長くなるとは思わなかった…まあ、二視点である時点で単独視点の倍の話数がかかって当たり前なんですが。それでもちょっと自分で驚いてます。
さて、後一話書くか!
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なのこ
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