下駄箱まで来て、靴を取り出そうとした時、わたしは運転手さんにメールを送っていないことに気がついた。あ……しまったな。しばらく、お迎えを待たないといけない。
わたしはため息をつくと、鞄を開けて携帯を探し、メールを送信した。その時だった。
「良かった……まだいたんだ」
「え……?」
わたしは驚いて、声が聞こえた方を見た。鏡音君が立っている。走ってきたらしく、息があがっていた。え……追いかけてきたの? なんで?
「……鏡音君、どうして?」
「勝手に帰らないでくれよ」
あ、きちんと話さずに教室を出たのはいけなかったわよね。……わたし、また、逃げちゃったんだ。逃げるのはいけないことなのに。
「……ごめんなさい。でも、わたし、部外者だし……あの場に残っていたらおかしいかと思って」
鏡音君は、わたしの前で首を横に振った。
「そんな気回さなくていいから。押しかけてきた向こうが問題なんだし」
どうしよう。また気を使わせてしまったみたい。もう心配かけないようにしなくちゃって、考えていたのに。
でも……どうしてかな。鏡音君が追いかけてくれたことを、少し嬉しいと思ってしまう自分がいる。駄目だってば、そんなことを考えちゃ。わたしの個人的な感情で、鏡音君を振り回したらいけないの。
「でも……部活があるんでしょう?」
鏡音君と話していると、気づかされることが多くて、とても楽しいけれど……でも、邪魔はしたくない。
「いやだからさ、部活動を円滑に進める為には、次の作品を早く決定することが大事なんだよ。でもって、内容をちゃんと理解していない状態で、上演の準備なんてできないだろ。だからこの話し合いは大事なことなんだ。なんか、グミヤに上手く伝わってなかったみたいで、妙なことになっちゃったけど」
それはそうかもしれないけど……。
「そういう話なら、演劇部の人たちとした方がいいと思うの。何もわたしじゃなくても……」
他の人たちの都合だってあるわよね。わたしじゃなくてもできるはず。
「巡音さんじゃないと駄目なんだよ」
鏡音君は妙なことを言い出した。
「どうして?」
「……どうしても」
それが答えだった。わたしじゃないと駄目って……。けど、『ピグマリオン』を推薦したのはわたしよね。乗れる限り相談に乗るのが、わたしの義務かも……。
あ、でも……お迎え、頼んじゃったのよね。
「あの、わたしさっき、お迎えを頼んじゃったの。だからそんなに時間無いけど……それでもいい?」
「……いいよ」
鏡音君の答えに、ちょっとほっとした。
「じゃ、中庭でも行こうか」
そう言われたので、わたしは頷いた。ここにずっと立っているわけにも行かないし。中庭なら、校門からは見えないからちょうどいい。わたしたちは中庭に向かうと、置いてあるベンチに並んで座った。
「じゃ、話を整理しようか。イライザは愛がほしい。だから愛をくれない教授ではなくフレディを選んだ。けど、フレディはヘタレで、イライザを幸せにできるような甲斐性があるとは思えない。そういうことだったよね」
「……ええ」
鏡音君、どうして甲斐性にこだわるんだろう……? わたしがお嬢様で、生活の苦労とかを良くわかってないせいなのかな……。
「一方、教授はガキだから、面倒を見てくれる人が本当は必要。けど、優秀すぎる上にプライドが高いから、並のレベルの相手だとたたき出されてしまう。イライザは頭がいいから、教授が相手でもやりこめることも可能で、教授の相手としては理想的。でも、教授は変人だから気持ちを素直に口に出せない」
わたしは、戯曲の最後の方を頭に思い浮かべた。教授は自分なりのやり方で、イライザを賞賛する。でも、そういうのはイライザの求めてるものじゃない。
「わたしは、イライザが選ぶのはフレディだと思う。魂を手に入れたガラテアは、もうピグマリオンのものじゃないのよ」
わたしは上を見上げた。青い空が広がっている。
「だってもう自由だもの。どこへだって飛んでいけるわ」
イライザが羨ましいな……。わたしには無理だ。
「けどさあ、やっぱりフレディじゃなくていいんじゃない?」
鏡音君はまたそう言い出した。疑問に思ったので、訊いてみることにする。
「どうしてそんなにフレディが嫌なの?」
「ヘタレの役立たずは嫌いなんだよ」
それが答えだった。どうしよう……このままじゃ堂々巡りだ。わたしが困っていると、鏡音君が何かに気がついたような表情になった。
「巡音さん……フレディと一緒になったら幸せにはなれないよ」
「え……どうして?」
「巡音さん、フレディのことを『シンデレラ』における王子のようなものだって言ったよね。でも、作者の意図がそうなら……もっと無条件でいい男にするんじゃない? ヘタレの役立たずじゃなくってさ」
そういう風に考えたことはなかったので、わたしは驚いてしまった。確かに、作品の中でフレディはずっとぽやっとしている。愛情だけは、たくさんあるみたいだけど。
「で、でも……じゃあどうして、フレディを選ぶエンディングなの?」
「一見ハッピーエンドに見えて、実のところそうではない……そういうラストを演出したかったんじゃない?」
鏡音君はそう答えた。一見ハッピーエンドに見えて、実際は違う? そう言えば、そんな内容のオペラがあった。幸せそうなラストなのに、その先の幸せがどうしても見えてこない、そんなオペラ。
何故だか、寒気がしてきた。
「けど、大掛かりな舞台になると、そういう毒気って受けないんだよね。だからミュージカルにする時に、結末を書き換えたんじゃないかな」
じゃあ、何をやってもイライザは幸せにはなれないの? そんなのってないわ。イライザがかわいそう。あんなに頑張ったのに。
「あの……巡音さん? 大丈夫?」
鏡音君にそう声をかけられて、わたしは現実に引き戻された。
「ごめんなさい。イライザのこと考えていたら、のめりこみすぎちゃったみたい。結局、イライザに幸せは来ないのかなと思っていたら、悲しくなってきちゃって」
駄目だな……ここにいるのはわたしだけじゃないんだから、あんまり考えすぎないようにしないと。
「幸せ不幸せなんて気の持ちよう一つなんだからさ。フレディを選ぶにせよ教授を選ぶにせよ、イライザの頑張り一つで案外何とかなるかもしれないよ。どうせそこから先は書かれてないんだし」
鏡音君はそう言ってくれた。やっぱり、わたし、落ち込みすぎてたのね。どうしてこうなのかな……。わたしの方こそ頑張らなくちゃ。
「……ありがとう」
わたしがそう言うと、鏡音君は安堵したようだった。これ以上は気を使わせないようにしないと。
「それで、結末のことだけど……」
鏡音君がそう言いかけた時、わたしの鞄の中の携帯が鳴り出した。
「ごめんなさい、携帯が鳴ってるの」
わたしは鞄から携帯を取り出した。あ……運転手さんからだ。お迎えに来たのね。
「……お迎え?」
鏡音君が訊いてきたので、わたしは頷いた。
「ええ。……ごめんなさい、話の途中なのに。でも、わたし、もう帰らないと」
「いや、いいよ。『ピグマリオン』のこととか、今日のこととか、色々助かった」
でも……まだ、完全に話がついたわけじゃないのよね。
「あの……鏡音君、明日は時間ある?」
やっぱり結論が出るまで話した方がいいような気がしてきた。今日はもう駄目だけど、明日なら……。
「巡音さん、明日は第二土曜だから、学校は休みだよ」
……忘れてた。うちの学校は私立だから週休二日制は採用していないのだけれど、第二土曜だけは休みということになっている。
「俺としては、外で会って話してもいいけど……巡音さんは大丈夫?」
わたしは頷いた。何とかしよう。
「……どこで会うの? また鏡音君の家とか?」
「ごめん、俺の家は無理。姉貴は土曜は仕事なんだよ。あれでも一応俺の保護者だから、姉貴の留守中に勝手にお客さん呼ぶわけにはいかなくって」
あ……そうなんだ。それじゃあ仕方ないか。でも、わたしの家に鏡音君を呼ぶのは無理だし……。どこか適当な場所……。
「鏡音君、柳影公園って知ってる? 大きめの都立公園なんだけど」
柳影公園は、わたしの行きつけの図書館の近くにある公園だ。あそこなら、また図書館に行くことにして、抜け出せばいい。
「知らないけど、調べられると思う。そんな大きい公園なら、簡単にわかるだろ」
そう言ってくれるんなら、大丈夫かな……?
「そこがいいの?」
「……ええ」
わたしは頷いて、それから、あの公園はかなり広いので、待ち合わせ場所を決めておく必要があることに気がついた。どこならいいかな……あそこがいいかも。
「その公園、ボート乗り場があるの。そこの前に朝の十時でいい?」
ボート乗り場なら目立つから、初めて来ても多分、すぐにわかるわよね。
「わかった。じゃ、朝の十時にそこで待ってるよ」
「ありがとう。それじゃあ、わたしはもう行かなくちゃ」
わたしは鏡音君に手を振って、校門へと向かった。
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