彼女の実家に来て数日が経った。
彼女は兄弟からのいじめを受けつつも、本来の目的の日まで、ひっそりと練習をしていた。僕自身、つい最近まで『本来の目的』なんて知らなかったが、母親に呼び出されたまま帰ってこない彼女の留守番をしつつ、唯と縁側で話していたときのことだ。
「もうすぐなんねぇ」
と、唯が独特の口調で呟いた。
「何がですか?」
「あれ、聞いとらせんの?ここに来た理由」
そういう唯に頷くと、彼女らしい、と笑う。
「おおちゃくいなぁ」
「オオチャクイ?」
「あ、分からんか。うーんとね、理由話すの面倒だなぁ、まぁそのうち勝手に知るだろう。って思う人のこと。面倒がり屋とか言うんかな?」
「なるほど」
「だから教えてあげる。この家は歌謡系の弾き語りとか、歌い語りとかをするすっごい家系でね。えーと、三味線とか、琴とか弾きながら歌うんだけど、あの子は弾くのに長けていてな、それがお偉いさんに大人気で。で、あの子がこの家を出て以降、お偉いさんがあまり来なくなったの。だけどある日急に、今回どうしても聞きたいってお偉いさんが言うから、半ば無理矢理奥様が連れ戻したみたい…っていう感じかな」
「じゃあ、どうしてご兄弟にあんなことされているのですか?」
「ただの嫉妬。歌えないくせに人気者なんて何様だぁー!みたいな」
それから、彼女は何度か三味線を夜に弾く。その姿と静かな音は心を落ち着かせてくれた。僕はまだ聞いたことのなかった三味線の音に耳をすませて、ほんのり明るい月の下で彼女が作ってくれた歌を紡いだ。
お偉いさんが来るまで、後三日。
ベン、
弾く音が聞こえる。あぁ、この空気を振動させる音は三味線だ。
ベベン、
ベン、
音が鳴る度に浮上する意識と、心地よさで沈む身体。ふわふわした感覚に、僕はパチリ、と目を開ける。
「ます、た?」
布団に入ったまま、縁側に座っている彼女を見た。今日も良い天気だ。眩しい緑に目を細めていると、彼女がゆっくりと振り向く。
「あぁ、ごめんね。起こしちゃった?」
「いいえ、とてもキレイな音色だったから……」
「そう?あ、こっち来る?」
「………はい」
僕は布団をたたみ、彼女の横へ向かう。そっと座ると、彼女がまた三味線を弾き始めた。
ベン、
ベベン、
その音に、僕は歌う。彼女が作った昔の曲。緑溢れる異世界に生きる歌い手の歌。その歌がなぜか三味線の音と良い具合にかみ合う。
♪
♪
僕の好きなフレーズが流れて、のびのびと歌う。そして、彼女特有のマイナス思考が紡がれる。
『緑の園に手をのばした
そこに僕は行けぬ
緑の園に足を出した
そこに足は届かぬ
歌謡(うたうたい)の鳥籠で
声枯れるまで
死ぬる時まで
出ることは 許されぬ』
そこまで歌って、ふと幼い子供を頭に思い浮かべた。
歌い続けなくちゃいけないのに、声が出なくなっていく。広い部屋に子供が一人で枯れた歌を歌う。
♪
♪♪
「………?」
ふと、僕の声ではない声が背後から聞こえた。明らかに、横にいる彼女の声ではない。恐る恐る振り向く。
♪♪
♪♪
そこに、一人の女の子がいた。深緑の着物。結い上げた髪。顔がどことなく……いや、はっきりと。彼女に似ているのが分かった。
くすんだ瞳には、緑の世界が濁って写る。片手には子供用の小さな三味線。
「どうしたの?カイト」
急に呼ばれて跳ね上がるほど驚いた。上ずった声で彼女を見て返事をすると、彼女は首をかしげた後、クスクスと笑う。
「本当に、どうしたの?なんか変だよ?
「あ、いえっ。何でもな、い………」
そう言いながらまた女の子に視線を戻したが、そこには誰もいなかった。いた痕跡を探そうと、女の子がいた位置まで戻る。縁側と畳の間。敷居がある辺りにいたなと、触れてみる。暖かくない。周りを見渡しても何もなかった。
「カイト?何かあるの?」
背後からそう聞かれ、笑顔で振り向く。
「いいえ、ただ………」
ここに女の子がいた気がして。
そう答えようとしたが、彼女を見て驚いた。
緑の異世界。縁側の茶色い柱は柵のように並ぶ。
縁側の向こうに出された足。そして、
(女の子…………)
彼女の横に半透明の女の子が空に手をのばしていた。そして、に口を少しだけ開けた。そして、五文字の言葉を呟く。
『―――――!』
「きゃっ」
「うわっ」
その言葉は突風にかき消された。思わず目を閉じてしまい慌てて開けるが、女の子はもういなかった。
「強い風だねぇ。カイトは大丈夫?」
「あ、はい」
そう僕が言うと、彼女はクスッと笑った。
「昔も、こんな風吹いたなぁ」
「昔?」
首をかしげると、彼女は二度頷いて外を見た。その横顔が、あの女の子と瓜二つだ。
「両手をのばすと、風が吹く気がしていたの。あんまり外に出れなかったから、風が私の所に来て、ギュッと抱きしめてくれてるって思ってた時期があったの。懐かしいな…」
そう言いながら彼女は両手をのばした。僕は、その光景が女の子と重なるような気がした。
「その時はもう、お母様や兄弟とは仲良くなかったから、誰も私の側にいてくれなかったの。だから、私にとっての育て親は、この風なんじゃないかなぁって、時々思う」
僕は、もしかしたらあの女の子は、昔の彼女だったのかもしれないと思った。歌にのせられたこの風景が、幼い頃の彼女を浮かばせたのだろう。
そして、歌にのせられたあのマイナス思考は、彼女が無意識のうちに入れた『自分の過去』だったんだ。
彼女は両手を一層広げて、女の子が呟いたあの五文字を言う。
「ねぇ、そうでしょう?『お母さん』………」
ふわり、と。
抱き締めてくれるような風が吹いた。
お偉いさんが来るまで、後二日。
「おーい!この着物着てみてぇな!」
「えぇ?今お化粧教わってるんだけど」
「お嬢様、動いてはなりませぬ。じぃやは手が震えておる故、いつ間違えて線を引くか分からんのです」
「あぁぁ、ごめんね。カイト、唯から着物もらって。後で着るから」
「はい」
「着あわせるときは呼んでな、手伝うで」
「うん」
今日は大忙し。明日来るお偉いさんのために下準備をする。使用人のほとんどがひとつの部屋の掃除にかかりっきりで、彼女も全くしていなかったと言うお化粧を教わりながらあれやこれやと動いていて、休む暇がない。
「うう、お化粧って変な感じ。早くとりたい」
「歌うときだけの辛抱です。さて、次は髪の結い上げですね。カンザシもつけますぞ。今ばぁばを呼んできますから、しばらくお待ちを…」
そう言いながら、お化粧を教えてくれたじぃやという人に彼女はありがとう、と言った。
「マスター、すごくきれいですね」
「そう?カイトもお化粧する?」
「いいえ、僕は男ですから」
笑ってそう返すと、彼女も薄く笑う。その笑顔が、お化粧の力か、いつも以上に大人びていて優しい。ドキドキと心臓が早く動き、とてもうるさい。でも、嫌になるような音でもない。
手に汗がにじむ。どうしてかわからない気持ちに戸惑いが隠せない。
「どうかした?」
異変に気づいたのか、彼女が僕を覗きこむ。吸い込まれるような瞳に目をあわせていられない。
「な、何でもないです!」
目をそらし、少し引き下がってそう言った。心臓が破裂しそうだ。
「お待たせしました、さぁ、髪を結い上げましょう」
「あ、うん。お願いします」
タイミングよく来てくれた使用人の人に心の中で感謝をしながら、彼女が三面鏡を見ながら髪を結い上げる姿を後ろから見守った。
「…はい、出来上がりましたよ」
「う、なんかちょっと重い……」
「我慢してください。これでも一番軽いカンザシなのです」
赤色の花をふんだんにあしらったカンザシは、彼女の白い肌を一層引き立たせる。きれいになっていく彼女に見とれていると、今度はせわしなく唯が来る。
「呼んだ!?」
「呼んでないけど今から着物。手伝って」
クスクスと笑いながら、彼女は僕に両手を差し出す。それの意味はわかっている。僕は先程もらった着物を渡すと、ありがとう、と言われて顔が熱くなる。
「カイトどうしたん?顔赤いに?」
「えっ…」
「はは、カイトはすぐ赤くなるよねぇ」
彼女がクスクスと笑いながら着替えていく。深紅の着物だ。また白い肌が目立つ。しっかりと整え、黒い帯を唯がしめた。
「よっし、こんなもんだな」
「ありがとう、唯」
赤い着物に、赤いカンザシ、黒い帯と、キレイな白い肌。
その美しさに、息を飲む。
「どうしたん、カイト。惚れたか?」
「え、あっ、惚れっ?」
「こら、唯。カイトが困ってるでしょう?」
そう言われてさらに赤くなる。これは知っている。羞恥心だ。
「ねえねえ、三味線聞きたい!」
「えぇ?三味線?」
「せっかく着たんだし、本番用の三味線も慣れておかないかんのでしょ?」
「そうだけど…」
「カイトも聞きたいら?三味線の音、ひと味違うでぇー」
「そうなんですか?」
「…まぁ、いつも使ってるやつと比べたら桁が違うからねぇ」
「へぇ!そうなんですか!聞きたいです!」
そう言うと彼女も諦めたのかため息をついて高そうな箱のの中から赤い三味線を取り出した。
「ずいぶん久しぶりだけど弾けるかなぁ」
そう呟いて、彼女は音の調整をした後、弾きはじめた。
「――――っ」
全然音が違う。奥行きのある音は静かに音を伸ばし、余韻が美しい。
いつもと同じ音なのに、音色の違いだけでこんなにも圧倒されるなんて…。
静かに聞き入り、やがて終わる。ふぅ、と一息ついた彼女に唯と一緒に拍手を送る。
「やっぱきれいやんな!すごいすごい!」
「すごくきれいでした」
「そう?ありがとう」
にっこり笑った彼女がもう一度弾き始める。僕はその音に、あの歌をのせた。
お偉いさんが、明日来る。
当日。僕にも少し上品な着物を渡されて着替える。彼女は昨日のままで、よし、と気合いを入れる。
「頑張ってくださいね」
「うん」
僕に笑顔を向けるがその表情は固い。やっぱり緊張しているのだろうか。だけど、かける言葉が見つからず、僕はゆっくりと歩いていく彼女を後ろから見守った。
席にはもうお偉いさんがいた。シワが深く刻まれたご老人夫婦で、二人とも目が見えていないのだという。
僕はお偉いさんの後ろに正座で座り、周りを見る。彼女の家族や使用人たちが厳しい顔で見ていた。
彼女は深くお辞儀をすると同時に、軽く挨拶をして、三味線を構えた。
空気が変わる。
いつも聞く音とは違い、激しさがあった。深く、腹に響くような音が流れてくる。
怒濤のように弾ききった音の余韻を残して、夫婦が拍手をする。
「これが聞きたかったんだ」
「とても素晴らしかったわ」
「ありがとうございます」
深くお辞儀をすると、彼女は顔をあげて、不意に僕を見た。
「実は、今日のためにもう一曲ご用意させていただきました。お聞きいただけますでしょうか?」
そう彼女が言うと、夫婦は嬉しそうに頷く。そして僕を手招きした。アポも何もなく唐突に呼ばれて、僕は戸惑いながら彼女の横に座った。
「今から弾きますのは、私が弾き、彼…カイトが歌います。よろしくお願いします」
そして、いつもの音が弾かれる。
緑溢れる異世界に生きる歌い手の歌。
僕らが使っていた部屋を思い浮かべて、あのマイナス思考には気持ちを大きく膨らませた。夫婦だけでなく、家族の顔も変わる。
僕はありったけの思いをのせて、彼女はゆっくり弾き終わると、夫婦から暖かい拍手と歓声をうけた。
家族の人達も、優しく笑っていてくれた。
「キレイな歌ね」
夫婦の老婆がそう言うと、彼女は笑って言う。
「はい。昔は寂しかったり、怖かったり、辛いことだらけでしたが…」
彼女は一息つくと、いつものように笑った。
「今はとても、暖かいです」
「……そう。聞かせてくれて、ありがとうね」
「はい…!」
荷物をまとめて、忘れ物はないか確認する。唯も一緒に手伝ってくれて、思ったより早くまとめることができた。
「あ、洗面台に忘れ物」
「おろ、とっといで」
「うん」
彼女はスタスタと歩いていき、姿が見えなくなった所で、僕はふと唯に話しかけた。
「家族のみなさん、結局会えませんでしたね」
「まぁね。今まで散々なことをしてきたのに、あぁやって目の前で言われると…ねぇ?」
あの日以降、彼女と僕の前から姿を消した家族らとは会えないまま、今日に至ってしまった。彼女は気にしてない。と笑ったが、やっぱり最後くらい会いたいのか、今日の朝は少し寂しそうにしていた。
「まぁ、そうですよね」
これも仕方のないことなのだろうか。そう思っていると、彼女が戻ってきた。
「身体にゃあ気をつけな」
「分かってる」
「カイト君もな」
「はい。唯さんもお元気で」
門前までついてきてくれた唯に別れを告げ、帰り道を歩き出す。
「おーい!」
不意に呼ばれて、僕らは振り向いた。唯が大声で叫ぶ。
「家族にゃなんか伝えとくかぁー?」
「家族に、ねぇ……」
彼女は呟くと、僕に耳打ちをして、彼女の代わりに答えた。
「いってきます!」
おまけ
歯磨きセットを忘れた。そう思って私は歩きなれた廊下を歩いていく。
「あったあった」
洗面台に置かれた二人分のセットを持つと、元来た道を歩き出した。
「おい」
不意にそう呼び止められて声のした方向を見る。そこにはここに帰ってきた初日、夕食中に頭からお茶をかけてきた彼がいた。あの日以降、家族に一人も会わなかったため、少し寂しくなっていたのだが、会えてホッとする。
「どうしたの?」
「……あの時は、すまなかった」
呟くように言ったその謝罪にフフっと笑うと、彼はカッと顔を赤くした。
「なぜ笑う?」
「だって、嬉しかったから」
あなたって、几帳面なのね。と言うと、彼はムスッとした顔で反対方向の廊下を歩き出す。私も歩き出すと、おい、とまた彼に呼び止められた。
「なぁに?」
振り向いて訪ねると、彼は手を左右に振り、
「………いってらっしゃい」
と言って足早に去っていった。
「いってきます」
私は聞こえるように返事を返した。
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