六日後、陽春は再び千代田屋を訪れた。
裏を返すためである。
この日も、國八はなつめだけを連れて現れた。
赤、瑠璃色の二枚の小袖に褐返の本帯を締め、大菊紋様をあしらった飾り帯の地色は金赤である。打掛は上から鉄紺、緋色、甚三紅で、鉄紺地には白糸で小菊が散っていた。
初会と違い國八が傍へ来て酌をしてくれ、國八も陽春の盃を受けた。
しかしこれといって言葉を交わすことはなく、やはり芸者たちに舞わせ、歌わせ、飲み食いさせただけであった。
そして、更に七日後、いよいよ馴染みとなる三度目の顔合わせである。
三度目の指名になると、客は花魁の座敷へ通される。よって、陽春もその決まり通り、駒乃屋の國八の座敷に通されていた。
國八の座敷は妓楼の奥の方にあり、中庭を挟んだ離れがそれであった。駒乃屋には以前から足を運んでいた陽春だが、流石にこれには気付かない。
他の女郎とは扱いが違うことは、ここでも明らかであった。
「いらっしゃいまし、陽春さま」
國八は部屋で待っていた。好きに呼べと言ったが、陽春のことは僧号で呼ぶと決めたらしい。
「やれ、今日も美しいな」
座敷に腰を下ろし、陽春はぽつりと洩らした。
今日の國八は、胡紛色地に桜紋様、宗伝唐茶、黒檀の打掛に、紫紺と中黄の小袖、茜色の本帯、赤地に御所車の飾り帯である。
すうと唇に引かれた紅と白粉、帯と一番上の打掛とがそれぞれ紅白でよく映えるのも、國八自身の美しさあってのことである。
正直な僧に誉められ、花魁は艶然と笑みを作った。
部屋に入る前に頼んでおいた酒が来たので、少しの間盃を交わす。陽春は強い方であるが、この花魁も滅法強いようである。
飲みながら、ちらと隣の部屋へと続く襖を盗み見る。上級の花魁の座敷には大抵もう一部屋付いており、そちらには布団が敷いてある。
三度目からは床入れも許されるのだが、陽春はどうもその気になれない。
不思議なことの多い女であったし、そうでなくてもまだろくに喋ってもいないのだ。
まずは互いの話をして、今日はもうそれで帰ろう、そう思っていた。
すると、盃を下ろした國八の口から、思いも寄らぬ言葉が飛び出したのだ。
「陽春さま、お願いがありんす」
「うん?何だ?」
國八の顔を見やると、言いにくそうな風である。どこか不安げにも見えた。
それでも真っ直ぐに陽春を見て、美貌の花魁はこう言ったのだ。
「どうか、わっちに触れないでくだっし」
遊女としては異例の申し出に陽春が何も言えないでいると、國八は続けた。
「吉原の遊女がこのようなこと…張りのないのは分かっておりいす。しかし、陽春さまには、わっちの手にも顔にも、どこにも触れないでほしいのでありんす」
何かを恐れているようだった。初めて見た時から曇りを知らなかった國八の瞳に、灰暗い陰が差している。
人前に出ないこと、細見に名がないこと、妹女郎を一人しか連れていないことなど、普通の遊女と違うのは分かっていた。何か訳があるのだろうとも思っている。
そうであるから、陽春は、初めから多少のことは受け止めるつもりでいたのだ。
「よし、分かった。お前には指一本触れぬと約束しよう」
國八の顔が、ぱっと華やぐ。許されるとは思っていなかったのであろう。
「私がもうここへ来ぬかもしれぬと思って、それでも打ち明けてくれたのだろう?立派に花魁の張りを持っているではないか。いや、それとも、私に来てほしゅうのうてそう申すのかな?」
にやりと口の端を上げてそう言ってやると、まァ、と口許を袖で隠す。
それから國八は、今までで一番美しく笑った。
「わっちは、陽春さまが三度もわっちに会いに来て下すって、ほんに嬉しゅうおざりいす」
それこそ、花が綻ぶようであった。
男を落とすための手練手管かもしれぬ。だが、陽春にはそうは見えなかった。
「何度だって来よう。さて國八、何をして遊ぼうか」
「陽春さまは、碁はおやりになりいすか?」
「おお、碁盤があるのか。よしよし、それでは一局」
「それで、一晩中碁石と戯れてたってんですかい!?」
「うむ、あの花魁がまた強くてな」
言いながら陽春は、ごとごとと将棋盤を出して、呆気にとられている時之助の前に置いた。
「な…何です?」
「次は将棋を打つ約束をしたのだ。特訓に付き合ってくれ」
「今度は駒にまみれるおつもりで…?俺も暇じゃないんですがねえ…」
時之助は、渋々盤の正面に座り直した。
じゃら、と散らばった駒を二人して並べる。
「しかし妙ですね。これでもかってェくらい、妙です」
「訳を言いたそうではなかったからな…何やら怖い思いをしたことがあるのやも」
「そんなら何故、駒乃屋は國八を花魁として置いているので?男が怖いなら、遊女なんざ務まりゃしねえでしょうに」
「それよな…」
香車やら桂馬やらを探しつつ、陽春は思案する。
男が怖い、というのではないだろう。國八は触るなと言っただけで、男と話もできれば酌もできる。
怖がっているとしたら、何か別のものだ。
それを、取り除いてやりたいと思う。
今までに國八を揚げた男たちも、同じ気持ちだったのだろうか。誰ぞ國八の怖いものを探り当て、消し去ってやろうと思った者はいなかったのか。
いたのなら、何故それが叶わなかったのか。
「國八と遊んだ男に誰も会ったことがない、か…」
「そういやあ、そうでしたね。そんなら、陽春さまとこうして向かい合ってる俺は、かなり珍しい思いをしてるってこってすね」
謎は深まるばかり。
陽春は、次の逢瀬に向けて将棋の腕を磨くのだった。
「生まれを聞いても良いか?」
ぴた、と歩を挟んだ國八の細い指先が止まった。そのまま駒を打って、國八は顔を上げる。
「生まれは神田でありんすが…陽春さま、新手の待ったでありんすか?」
國八の笑みはいつもと変わらない。
しかし、見え透いた言葉であることは分かった。生まれについてあまり語りたくないのだと、暗に言っているのだ。
「そんなことより、わっちゃァ陽春さまのことをお聞きしとうおざりんす。お寺での暮らしは如何様でありんしょう」
「おお、私のことも話しておらなんだな。私のいる弘龍寺は、日蓮宗の寺だ。兄が住持をしておって…」
それから陽春は、寺のことを中心に話した。
将軍の嫡子であることは伏せておいた。國八を恐縮させては悪いと思ってのことである。
國八は時折目を細めて、陽春の話を楽しそうに聞いていた。
一方、座敷の外では。
「盗み聞きとは、野暮でありんすな」
酒の盆を携えたなつめに、時之助が見つかっていた。
「失礼な。俺はここにこうして控えているだけさね」
「そんなら、伴部屋まで御案内致しんすが」
「…中々口の立つ禿だな」
廊下にどかりと腰を下ろしていた時之助は、膝を払って立ち上がった。
「お前さんの姐さん、一体どういうお人だい?」
「わっちが答えることではありんせん」
「ふむ…ま、それもそうだわな…」
嘆息して、なつめの横を通りすぎた。
すると、後ろでしゃらりと音がする。髪飾りの音であった。
なつめが振り向いたのだ。
「時之助さま」
「何だい?」
「陽春さまは、御坊様なのでありんしょう?」
女犯を禁じられている僧が通ってくることで、國八や駒乃屋に何か災いが及びはしないか、そんなことを案じているようであった。
時之助は膝を少し折り、なつめと目線を合わせた。
「駒乃屋の禿のくせに、この時之助の手腕を知らねえたァなァ。心配しねえでも、大丈夫だよ」
なつめはまだ不満そうである。
「陽春さまとて、型破りなお方ではあるが、國八のことは大事になさるだろうよ」
「何も戒律まで破らずとも…」
「まあ、そう言いなさんな。楼主も承知のことだ」
そこまで言って時之助は、國八のことを聞くにうってつけの人物がいることを思い出した。
燗が冷めると言ってなつめを座敷へ入らせ、時之助は駒乃屋の一階へ下りた。
「駄目だ。あたしは何にも喋んねえよ」
駒乃屋重右衛門は、國八のことについて頑なに口を閉ざした。
重右衛門は、引手茶屋・千代田屋の主人・又兵衛とは対照的に、ひょろりと背が高く神経質そうな見目の男である。
「この前、助けてやったじゃねえか」
「ありゃァ陽春さまを國八に会わせたんでチャラだ」
「じゃ、借り主の名をもう一人挙げな。そっちも何とかしてやろう」
時之助が食い下がっていると、重右衛門は捲っていた帳簿を閉じて、それで肩をとんとんとやった。
「時さん…こればっかりは言う訳にゃいかねえ。いくらあんたにでもだ」
再び口を開こうとした時之助だったが、重右衛門は遣手に呼ばれて二階へ行ってしまった。
歯噛みしつつ、すごすごと本所の長屋へ帰るしかなかったのである。
「陽雪さまあっ!」
陽春が國八の元へ通うようになって、一月ほど経ったある日。
陽雪の部屋に、寺の坊主である俊景が飛び込んできた。
「どうしたね、俊景」
いつも大人しく聡明である俊景がこれほど取り乱すとは、余程のことがあったに違いない。
陽雪はそう思い、筆を持つ手を休めた。
隣で手伝いをしていた時之助も、俊景を見やる。
普段物静かな小坊主は、こう切り出した。
「陽春さまが御病気です!」
「なんと!して、如何したのだ?」
「はい、それが、陽春さまときたら、今日は朝から机にお向かいになって、四書などを読んでおられるのです!これは御病気に違いありません!きっとお熱が高いのでございます!」
それを聞いて、陽雪と時之助は顔を見合わせる。
「俊景…落ち着きなさい。まずは、医者を呼ぶのだ!」
「ちょいと陽雪さま、落ち着くのはどっちですかい」
俊景の言葉に吹き出しかけていた時之助は、そうする間もなく肩を落としたのだった。
「病気?私が?」
俊景の言った通り、陽春は部屋で書物を開いていた。
「違うのか?」
部屋に押し掛けてきた三人に、陽春は首を振って答える。
「國八というのは、大した女でしてな。琴などの楽器は勿論、将棋も碁も私より強く、四書五経を諳じ、漢詩文にも長けております。更には発句から連歌、狂歌までを作り、これがまた、どこの名人かというほどで。ですからこうして勉強してから会いに行かねば、渡り合えぬというわけなのです」
それから、邪魔をするなら出ていってくれとも付け加えた。
部屋から閉め出された三人には、ぽかんと口を開けることしかできない。
勤勉とは程遠い陽春だが、國八のためなら本も読むのだ。呆れるしかなかった。
「そういえば、この頃陽春さまは瘤を作っておられやせんねえ?」
時之助は陽雪に向けて言った。陽春の頭に瘤を作るのは、陽雪の仕事だからである。
「まあ…女犯を犯しているわけではないようだからな…九つを回る前には帰っておるし。廓通いには感心せぬが」
陽春が入れ込んでいる遊女が今までのそれとは違うのだと、陽雪にも分かっているらしかった。
「お医者様をお呼びしなくて、本当に宜しいので…?」
未だに青い顔をしている俊景に、時之助は今度こそ吹き出した。
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