「あ、あの……?」
思わず、そっちを見てしまうわたし。
「あ、ああ、ごめんごめん……気にしないで……」
言いながら、相変わらずお姉さんは笑っている。鏡音君が、ちょっと呆れた声をお姉さんにかけた。
「姉貴、何がそんなにおかしいわけ?」
「だって……この主人公、あまりにもわかりやすすぎるバカやってるんだもの。これが笑わずにいられますか」
お姉さんは笑いながらもきっぱりとそう言ったので、わたしは呆気に取られた。
「バカって……」
後の言葉が出てこない。こんなことを言われるとは思っていなかったし。
「バカって、どの辺が?」
鏡音君がお姉さんにそう訊いている。お姉さんはリモコンの一時停止ボタンを押すと、笑いながら説明を始めた。
「いや~だって、この主人公、アタナエルだっけ? 要するにただ単にタイスのことが好きなのよ。タイスが堕落してるから救ってあげなければとか言ってるけど、結局のところ、彼女が自分以外の不特定多数の男と寝てるのが気に入らないってだけ。なのに、自分が身体売ってる女に恋をしてるってことを認めたくないから『タイスを救うのが神の与えた我が使命!』だなんて、必死こいて言い訳作って、そうやって自分の体面を保ってるの。いや~、本当、笑えるわ~」
そこから先は笑い声だけになった。わたしは、お姉さんに言われたことを考えてみた。アタナエルはタイスのことが好き? 確かにオペラのラストはそういう幕切れだけれど……。
「周りの態度を見る限り、結構ランクが上の人みたいなんだけど、だから余計認められないんでしょうね。この立派な俺様が、あんな穢れた女になんか! って感じで。援助交際やりまくってる女の子に恋をした優等生みたいなもんって言ったら、わかりやすいかしら?」
わたしが前に読んだオペラの解説書では、アタナエルはタイスを改心させようと接している間に、彼女の色香に堕ちたと説明されていた。でも、最初からタイスが好きだったのだと考えると、話の意味合いがかなり変わってくる。
「大体、たった一人の女のせいで、都市全体が堕落するわけないでしょ。この男はそういう理屈でも作らないと、自分を騙せないのよ。でも、そうやって自分に嘘ついてごまかしたところで、どこかで限界来るわよ。まあ続きを見ましょうか」
自分に……嘘をつく……。
「まあ続きを見ましょうか」
お姉さんはリモコンの再生ボタンを押した。オペラの続きが始まる。アタナエルが何かしら言う度に、お姉さんは吹き出していた。一方で、場所がニシアスの館に移り、タイスを始めとする複数の女性たちが登場して場が華やかになると、衣装に感嘆していた。
第二幕。一人になったタイスは鏡の前で現実を突きつけられる。そこにアタナエルがやってきて、信仰によって得られる永遠の幸福について語る。次第にアタナエルの説く世界へ、関心が傾いていくタイス。葛藤の後に、有名な瞑想曲が流れる。
「あれ、この曲って……?」
「『タイスの瞑想曲』といって、これ単独で演奏されることのある有名な曲なの」
『タイス』というオペラは知らなくても、この曲だけは聞いたことがあるという人も多い。意外とこういうことはよくある。例えば「天国と地獄」は、『天国と地獄』というオペラで使われる曲だ。他にも「真珠採りのタンゴ」や「韃靼人の踊り」等、元の作品を離れて有名な曲は多い。
瞑想曲の後、タイスはキリスト教への改宗を決意する。アタナエルはタイスに、不浄な仕事で築き上げた財産を、全て燃やして灰にしろと指導する。火は、おそらく浄化と結びついている。タイスはそれに従おうとするけれど、小さな象牙の像を取り出して、これだけは焼かないで、誰かに持っていてほしいと訴える。古代の名工の手によるもので、価値のあるものなのだからと。でもそれがニシアスからの贈り物だと聞くと、アタナエルは激昂して「今すぐ壊してしまえ」と命じる。
お姉さんは、ここで派手に笑い転げた。テーブルの上に、突っ伏しそうな勢いで。
「ね? 言ったとおりでしょ?」
「これは……確かにヤキモチ以外の何物でもないな」
鏡音君が頷いている。
「相手が自分の友達だから、なおさら許せないんでしょうねえ。でも、それを自分で自覚してない辺り、始末が悪いのよね……ああ、おかしい……」
お姉さんは笑いの発作を抑えこもうとしながら、そう言った。わたしはちょっと気になったので、訊いてみることにする。
「あの……そうなんですか?」
「ニシアスからのプレゼントだって聞くやいなや、即激怒する辺り間違いないわ。それまで割と落ち着いて聞いていたのに、急にぷっつんしたでしょ。どう見てもこれは嫉妬ね」
きっぱりとお姉さんは断言してしまった。画面では、オペラが続いている。アタナエルはタイスを連れ出そうとし、アレクサンドリアの人々が激怒する。そこへニシアスがやってきて、金貨をばら撒いて二人の逃亡を助け、タイスへの別れの気持ちを歌う。ここで第二幕が終了。
第三幕では、アタナエルとタイスは女子修道院へ向かうため、砂漠を渡っている。疲労で倒れるタイス。アタナエルは初めてタイスを気遣う。その後タイスは修道院に入ってしまい、アタナエルは「もう会えないのか」と、淋しそうに彼女を見送る。解説書などでは、この旅で情が移ったとか、魅惑されてしまったとか、書かれていることが多い。……お姉さんは相変わらず笑っている。
自分の修行場である砂漠の修道院に帰ってきたアタナエルだけど、その心が安らぐことはない。夢にタイスが現れ、彼を誘惑して苦しめるからだ。彼女を忘れられないと苦悩するアタナエル。……限界って、こういうこと?
「遅いって!」と、お姉さんが突っ込んでいる。そこへ、タイスが死にかけているとの知らせが入り、アタナエルは女子修道院へと向かう。
いよいよオペラはフィナーレを迎える。タイスは瞑想曲の調べに乗せて「あなたのおかげで私は安らぎ、神の国へ入れる」と歌うのだけれど、アタナエルは「お前の美しさだけが真実だった。置いていかないでくれ!」と歌うのだ。二人の歌声がすれ違ったまま、タイスは死んでしまい、アタナエルは絶望して、最後の幕が下りる。
「ああ、おかしかった……オペラがこんなに面白いとは思わなかったわ」
お姉さんは相変わらず笑いながらそう言った。え、えーと、どう答えれば……。まさかここまで笑われるとは思ってなかったし……。
「姉貴、今回は主人公がバカ入ってる割に怒らなかったね」
隣から、鏡音君がそんなことを言う。アタナエルって、鏡音君から見てもバカに見えるんだ……。
「ん~、ここまで道化に徹されると、笑えて来ちゃって怒るどころじゃなくなるわね。かなり主人公を突き放した作りになってる辺り、作った人もわかっててやってるんじゃない? それにしても救いようのない主人公だわ。傲慢と嫉妬のあわせ技抱えてる人が、神の道を説くんだから。まず自分を振り返りなさいって」
アタナエルに救いが来ないイコール突き放した作り、と受け取っているみたい。悲劇性を増したいだけだと思っていたのだけれど、違うようだ。お姉さんの言うことを聞いていると、『タイス』が、今まで思っていたのとは、全然違うストーリーに見えてくる。
「俺は、その辺りが皮肉だと思うんだよね。だってこの主人公、自分に嘘ついて誤魔化しまくっているのに、ある意味ではタイスを救ってしまうんだから」
今度は鏡音君がそんなことを言い出した。アタナエルの行動は本心から出たものでなくとも、タイスはそれによって一種の宗教的救いを得る。
……差し出された物が偽物でも、それに真摯な気持ちで向き合ったら、自分の中では本物になるということなのだろうか。でも、それを目の前で見せられるアタナエルは気の毒だ。
……タイスはどうなんだろう。宗教に生きて、あれで本当に良かったんだろうか。
「タイスは……幸せだったのかな」
最後彼女は幸せだ幸せだと何度も歌うけれど、その「天上の幸福」というのが、わたしにはよくわからない。
「俺は宗教の話はよくわかんないけど、幸せではあったんじゃない?」
「自分の心に素直に向き合った分、アタナエルよりは幸せな結末と言えるんじゃない? 死ぬまでの日々は穏やかだったんじゃないのかな」
心に素直に向き合うこと……自分に嘘をつかないこと……。あの日の夢。わたしの中には……何か残っているものがあるのだろうか。
「あの……ありがとうございました」
そう言うと、お姉さんはにっこり笑った。
「そんなかしこまらなくていいわよ。かなり言いたい放題だったし。面白い作品見せてくれて、こっちこそありがとう」
もう一つ……訊いてみよう。
「『ラ・ボエーム』と『タイス』だったら、どっちが好きですか?」
「当然『タイス』ね」
お姉さんは即座にそう答えた。……やっぱり、こっちなんだ。
と、ここでわたしは時間に気づいた。もっと話していたいけど、もう帰らなくちゃ。お迎えまでに図書館に戻れなくなってしまう。
「あの……お話するのは楽しいんですけれど、わたし、そろそろ帰らないと……」
「そう? じゃあ、気をつけてね」
お姉さんはプレーヤーからDVDを取り出して、ケースに入れて渡してくれた。わたしはDVDケースとお弁当箱を、鞄に仕舞った。これでもう、忘れ物はないわよね。
「それでは、失礼します。今日はありがとうございました」
「駅まで送ってくよ」
鏡音君がそう言って立ち上がった。ちょっとほっとする。一人で駅まで戻れるかどうか、自信がなかったから。
「……ありがとう」
わたしは鏡音君と一緒に、玄関から外に出た。お姉さんは、玄関まで見送ってくれた。
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