注意書き
これは、拙作『ロミオとシンデレラ』の外伝です。
外伝その四十【夜更けの出来事】のレン視点のエピソードになります。
また、外伝その三十九【家族の定義】のネタバレを含みますので、そこまでの話を読んでから、読むことを推奨します。
【心安らかなる時を】
夜、俺は居間で雑誌を読んでいた。リンは書斎で仕事をしているので、今この部屋にいるのは俺だけだ。何となく時計を見る。結構遅いな……そろそろリンを誘って寝ようか。でも、仕事だし、動きたがらないかもしれないなあ……もうちょっと待ってみた方がいいかもしれない。
そんなことを考えていると、携帯が鳴った。メールだな。俺は携帯を手に取って、確認した。……姉貴からか。メールには「レン、まだ起きてる? 起きてるんだったら、できたらすぐにこっちにかけて。もう寝てしまったのなら、気がついたらすぐに連絡ちょうだい」と書かれている。うん、なんだ? 何かあったのか?
俺は姉貴の携帯にかけた。すぐに向こうが出る。待っていたようだ。
「姉貴、どうかした?」
「あ、レン、良かった!」
電話の向こうから聞こえてくる姉貴の声は、かなり上ずっていた。何かまずいことでも起きたんだろうか。携帯を握る手に力が入る。
「何かあったの?」
「あったんだけど……」
姉貴の声のトーンがやや落ちる。
「えーとね、リンちゃん、今どうしてる?」
「リン? 書斎でまだ仕事してるよ。締め切りが近いんで、少し神経質になってる」
なんでリンのことを訊くんだ? リンに聞かせると、ショックの大きい話なのか?
「じゃ、今、近くにはいないのね」
「ああ」
俺が肯定の答えを返すと、姉貴は少しの間だけ黙った。それから、また喋りだす。
「レン、あんたに、私が仕事を辞める話はしたわよね?」
その話ならとっくに聞いてるよ。姉貴は例の始音カイトと結婚することになり、奴は地方勤務になるんだとかで、姉貴はついていくために仕事を辞めることにしたんだ。あいつが俺の義兄になるのか……なんだかすごく妙な気持ちになる。
「その話なら聞いたよ。でもって、姉貴の後任にハクさんが入るんだろ」
リンの姉――だから、俺の義姉ってことになる――のハクさんは、姉貴と同じ服飾関係の専門学校を出た。そして、四月からパタンナーとして、アトリエ・シオンに入ることになっている。
「うん、そう。そうしたらリンちゃんのお母さんが、おめでたい話だからって、お祝いのパーティーを開いてくれたの。私と、マイコ先生と、カイト君と、アカイ君を呼んで」
ふーん、そんなことになってたのか。ちなみに姉貴が前に教えてくれたのだが、カイトの従兄のアカイとやらは、ハクさんに気があるんだそうだ。もしかして、もう一つおめでたい話が増えたのか? でも姉貴の口調、いいことがあったって感じじゃないなあ。
「で、だから今、ハクちゃんの家にいるんだけど……そこに、リンちゃんの一番上のお姉さんの旦那さんが来ちゃって」
「へ?」
俺は思わず、間の抜けた声をあげてしまった。リンの一番上のお姉さんの旦那さん? 確かアカイと先輩後輩の関係だって言ってたよな。
「もしかして、あのアカイって奴が呼んだの?」
「そんなわけないでしょ。アカイ君だって、ハクちゃんの事情ぐらい知ってるもの」
ややむっとした声で、姉貴は答えた。じゃ、何しに来たんだ?
「来たの、旦那さんだけ? リンのお姉さんは一緒じゃなかったの?」
一応ハクさんとは姉妹なんだから、お姉さんと一緒とかならまだ、来るのもわからなくはないんだが……姉貴の口ぶりだと、来たのは旦那さんの方だけみたいだ。
「お姉さんは一緒じゃないわ。でも、娘さんを連れてきたの。ミカちゃんっていって、リンちゃんにとっては姪ね。二歳ですって」
そういや、リンが前に心配してたな。あのお姉さんのことは心配するだけ無駄だと思うんだが……。
「それで、向こうは何しに来たんだ?」
「ああ、うん、それが……あのね、リンちゃんの義理のお兄さん、平たく言うと逃げてきたのよ。なんでも、リンちゃんのお姉さんの様子がおかしいんですって」
……会ったことないけど、リンの話を聞いた感じ、その人はもともとおかしい。ちょっと待てよ、逃げてきたって……。
「何があったんだ?」
電話の向こうで、姉貴は事情をざっと説明してくれた。リンのお姉さんはまだ二歳の自分の娘の目の前で、ぬいぐるみの耳を切ったり、絵本を破ったりしていた。更には泣き喚く娘を、ロフトに閉じ込めたりもしていたのだとか。しかも、そういうことをしていて、旦那さんに問い詰められても「悪い子だから仕方がない」と言っているのだと。
「とまあそういうわけで、リンちゃんのお義兄さん、娘さん連れて逃げてきちゃったってこと。自分がどうとかいうより、娘さんを避難させたいってことなんだろうけど」
そりゃ……逃げたくもなるだろうな。俺は何ともいえない気分になった。リンは小学生の頃、大事にしていたぬいぐるみや絵本をみんな捨てられてしまって、そのことは今もリンの中に、傷として残っている。それと同じ……というか、もっとひどいことが起きようとしているわけか。
「レン、あんたリンちゃんから何か聞けそうにない? お姉さんのこと」
「ハクさんはなんて言ってるんだ?」
「ハクちゃん? あ……うーん、あのね……あんたにこんな話するのもなんだけど、ハクちゃん、お姉さんのこと、すごく嫌ってるの。一番上のお姉さん、すごく優秀な人で、ハクちゃん、小さい頃からずっと比べられてきたとかで。だからお姉さんのことは、ハクちゃんにとっては一種の地雷なのね」
つまりハクさんはお姉さんのこととなると、ヒートアップしてしまうんだな。それでリンの方から何か聞き出せないかって、姉貴は思ったのか。でも、リンだって一番上のお姉さんといい関係は築けてない、それどころか。
「……姉貴、俺、リンにお姉さんの話したくないんだけど」
「何かあったの?」
俺の口調で察したらしい。俺は電話口でため息をついた。リンに口止めされていることだが、話した方がいいだろう。非常事態だし。
「俺とリンが高校生の時の話なんだけど、リンが階段から落ちて入院するはめになったことがあってさ。俺、初音さんにお見舞いに連れてってもらったんだけど、その時、初音さんが俺とリンを二人きりにしてくれて。で、リンを問い詰めたら教えてくれたんだ。リンの一番上のお姉さんが、リンを階段から突き落としたって」
電話口の向こうで、姉貴が息を呑んだのがはっきりわかった。
「階段から突き落としたって……どうしてまた?」
「さあ? リンはわからないって言ってた。突き落とされるようなことは何もしてないのに、突然突き落とされたって。しかも突き落とした次の日、お姉さんは何事もなかったかのように仕事に行ったってさ」
姉貴は絶句してしまった。俺は言葉を続ける。
「お姉さんはリンが退院してきても平然としてて、まるでそんなことなかったみたいに振舞って……リンはひどくショックを受けてた。だから俺、言ったんだ。もうお姉さんには構うな、近づくなって。そんな人に近づいたら、リンは何をされるかわからないし」
「……リンちゃん、その話は他の誰にもしなかったの?」
ショックが強すぎたのか、姉貴は乾いた声でそんなことを訊いてきた。
「ああ。大体、リンがお姉さんに階段から突き落とされたって言ったって、リンのことを信じてくれるような人、いないだろ? 一番上のお姉さん、素行のいい優等生なんだから」
あ、ハクさんだったら信じたのかもな。もっともハクさんにも、この話はしていないようだけど。
「それは……そうだろうけど……」
「そういうことだから、俺はリンをあのお姉さんとは関わらせたくない。不用意にあんな人に近づいたせいで、リンがまた傷ついたら嫌だから」
何をするのかわからない地雷みたいな人に、リンを近づけられるもんか。きっぱりそう言うと、姉貴はしばらく黙った後、電話の向こうで大きく息を吐いた。
「……それはそうね。わかった、リンちゃんにはお姉さんの状態は伝えないよう、ハクちゃんとリンちゃんのお母さんに根回しはしておく」
「頼む。あ、それと、言っとくけど、今の話を触れ回らないでくれよ」
俺が喋ったって知れたら、それはそれでリンがショックを受けてしまう。
「ええ、わかってる。……そのことは伏せておくわ。ハクちゃんのことも、できるだけフォローする。だからあんたは、リンちゃんをお願い」
「……ああ」
俺が頷くと、通話が切れた。俺は携帯をテーブルの上に置くと、リンの実家のことを考える。
リンの両親は、リンが家を出て行った後で離婚した。リンのお姉さんのハクさんも、お母さんについて家を出た。それ以来、リンはお母さんやハクさんとは連絡を取っているけれど、お父さんや一番上のお姉さんとは取っていない。当たり前といえば当たり前なんだが。連絡取ろうとしたところで、あのお父さんから返ってくるのなんか暴言だけだ。
気分が悪い。悪いというか、いらいらする。リンを連れて家を出たことで、もうリンの実家には悩まされなくて済むと思ったのに。
俺は立ち上がると、書斎に向かった。明かりが点いていて、中からキーボードを叩く音が聞こえてくる。ドアを開けて中を覗いてみると、リンはまだPCに向かっていた。
「……リン、まだ寝ないの?」
声をかけると、リンは振り向いた。それから時刻を確認しようと、時計を見ている。……また時間を忘れて没頭してたな。
「先に寝てて。わたし、きりのいいところまで作業しておきたいの」
リンは答えると、またPCの方に向き直った。難しいところに差し掛かってるのかもしれない。いつもならもうしばらく待つんだが、今日はそうする気にはなれない。俺は部屋に入ると、椅子にかけて仕事をしているリンを背中から抱きしめた。とにかく、リンに触れてその存在を感じたかった。
「きゃっ!」
リンがびっくりしたのか、小さな悲鳴をあげる。俺はリンを抱きしめたまま、その髪に顔を埋めた。いつもと同じ、いい匂いがする。
「リン、もう遅いよ」
耳に顔を寄せて囁いてみる。でも、リンは首を横に振った。
「ええ、でも、もう少しだけ」
今夜は離したくない。リンを近くにおいて、感じていたいんだ。俺はリンを抱きしめる腕に力を込めた。
「終わりにして、寝ようよ」
そう言って、リンの首筋に口づけた。リンの身体がびくっと震える。
「やっ……だから、仕事……」
リンを軽く身をよじったけど、そんなに力は入っていない。俺はリンの身体を撫で回して、それからもう一度、首筋に口づけた。腕の中のリンの身体が、熱くなっているのがわかる。
……そうして、俺は、リンを寝室に連れ込むことに成功した。
俺はリンと一緒に、寝室のベッドに横になっていた。隣から、小さなため息が聞こえてくる。リンは、まだ仕事に未練があるようだ。とはいえ、さっきあれだけ色々としたわけだから、当分は動く気になんてなれないだろう。
そう思っていたけれど、隣でリンが身動きする気配がした。何か考える前に、反射的にリンを抱きしめてしまう。離したくない。
「……レン君?」
リンの怪訝そうな声が聞こえる。俺は答えず、リンを抱きしめたままでいた。
「……ねえ、何かあったの?」
抱きしめているので顔は見えないが、リンの声が心配そうな色を帯びてきた。
「リン、今日は、もう寝よう」
少し考えてから、俺はそれだけを言った。今夜は、このまま朝まで、ずっと一緒にいたい。
リンがまたほんの少し身動きして向きを変え、俺の胸に顔を埋めてきた。どうやら、抜け出そうという気はないようで、ちょっと安心する。
「本当に何もなかったの? 何か嫌なことがあったんじゃないの?」
でも、リンはまだ懸念を捨てていないようだった。……リンを心配させてはいけない。俺は腕をゆるめて身体を少し離すと、リンの額に自分の額を押しつけた。
「そういうんじゃないよ……ただこうしたかっただけで」
今、お姉さんの話を聞かせたら、リンはきっとまたあれこれ悩むだろう。リンとはもう関わりのないことだし、それに多分、何もできない。そんなことで悩んで、疲弊するリンを見たくないんだ。リンにはこの先のことだけ、俺と一緒の未来のことだけ、考えていてほしい。
「レン君、わたしね……レン君とこうして一緒にいられて、とても幸せ」
しばらくして、リンはそれだけを言った。声から、心配する調子は消えている。俺はまた、リンを抱きしめた。さすがに少し、罪悪感がする。……でも。
リンが今幸せだと言ってくれて、嬉しかった。君が安心して眠ってくれるのなら、その為に、俺はどんなことでもするよ。
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