もうリンをあっちに置いておけない。そう考えた俺は、姉貴にそう伝え、リンには、「心配している」という内容の手紙を書いて送った。ことは簡単に運ばないのはわかっていたが、何もせずにはいられなかったんだ。けど、リンからの返事は来なかった。手紙を書くこともできないほど、辛いらしい。
じりじりするうちに時間は過ぎて、三月になった。そんなある日。姉貴から連絡が入った。話がついたので、とにかく一度、日本に戻ってこいと。俺は飛行機のチケットを取り、手続きをして、あわただしく帰国した。
「リンは?」
空港まで俺を出迎えに来てくれた姉貴に、俺は開口一番そう訊いてしまい、姉貴に呆れられた。
「あんたねえ……二年半ぶりに会った姉に、まずそれを言うの?」
さすがにそれはまずかったか。俺は姉貴に謝ってから「ただいま」と言い、改めてリンのことを尋ねた。
「リンちゃんね……ハクちゃんの話だと、良いとは言い難いわね」
俺はイライラしながら、姉貴の次の言葉を待った。
「でもね、一つだけ、いいことがあったの。ハクちゃん、リンちゃんのお母さんと話し合ってくれたのよ」
「引きこもり、やめたってこと?」
外には出ているわけだから、正確に言うと引きこもりとは違うんだろうけど。
「そういうこと。で、ハクちゃんを通して、リンちゃんのお母さんと話し合いができたの」
姉貴はそこで言葉を切ると、俺を真っ直ぐに見た。自然と背筋が伸びる。
「レン、その前に確認しておく。リンちゃんの人生、引き受ける覚悟はある?」
俺は姉貴の目をみつめて、頷いた。例え何があっても、リンのことはどうにかする。
「……言っておくけど、平坦な道にはならないわよ。リンちゃんは箱入りで、外のことはろくに知らない。そんなリンちゃんと一緒に生きていくのは、ものすごく大変だし、きっと苦労することになると思う。それでも、やる?」
俺だって、色々考えた。リンを連れ出したら、大変なことがたくさんあるだろう。それでも、俺はリンと一緒にいたい。
「姉貴……リンをあのままあの家に置いておいたら、リンは死ぬか気が狂うか、どっちかだよ。俺はどっちも嫌なんだ。リンは、俺が守るよ」
姉貴はこめかみにかかった髪をかきあげると、やれやれと言いたげな表情で俺を見た。それから、一つ頷く。
「わかったわ、行きましょう」
家に帰るまでの道すがら、姉貴は俺に状況を話してくれた。リンのお母さんは、リンの幸せのためなら、娘を手放すと言ってくれたのだと。
「お父さんは?」
「何も話してない。話したって承諾なんかしてくれないわ。だから秘密のうちに、なるべく早くことを起こす必要があるの。お父さんがリンちゃんを連れ戻そうとしても、どうしようもない状態にしてしまわないと。……うちの母さんにも、話はつけておいたわ。ものすごく苦笑いされたけど、あんたがその気なら支持するって」
「ビザは?」
外国で生活するとなると、どうしてもこの問題が絡んでくる。
「……取得は後からでもいいわ。出たり入ったりになるだろうけど、それくらい我慢しなさい」
うーん……それでいいんだろうか……。けど、まずはリンをあの家から連れ出すのが先か。
「とにかく、あんたは荷物だけ置いたら、今すぐリンちゃんの家に行って来なさい」
「行くって……姉貴、今は夜だぜ」
ばたばたしていたものだから、飛行機の到着の時間まで気にしていられなかった。現在、時計は七時を指している。
「あんた……リンちゃんに会いたくないの?」
いや、それはもちろん会いたい。
「幸い、リンちゃんのお父さん、今夜の帰宅はかなり遅くなるそうなのよ。だから、今すぐ行って、リンちゃんを連れて来なさい。話はついてるから」
姉貴に追い立てられるように、俺は家を出た。リンの家へどう行けばいいかは憶えている。辺りはもう真っ暗だが、それは大したことじゃない。
なんというか、急なことになってしまった。でも、本当に入れてもらえるんだろうか? いや、姉貴の話を疑っているわけじゃないんだが……。リンの家へと向かいながら、俺はあれこれと思考を巡らせていた。リンをあの家から連れ出す。それは、あの日、リンと別れてから、ずっと俺が願っていたことだった。リンに俺の近くにいてもらうこと。それが、俺の望み。
予定していたのより、あまりにあわただしく事が運びすぎて、混乱はしている。でも、やるしかないんだ。リンのためにも、俺のためにも。
そうこうするうちに、リンの家に着いた。目の前の豪邸を眺めて、一つ深呼吸する。……本当に大丈夫なんだろうか? 訝しみながら、俺はインターホンを押した。
「どちら様ですか?」
落ち着いた女性の声がした。……えーっと。
「あの……鏡音レンです」
そう答えると、向こうはしばらく沈黙した。それから。
「……どうぞ」
声がして、正門が開いた。どうやら本当に話がついていたらしい。俺は中に入った。なんか……ここも本当に、庭が広いな。家がでかいだけじゃなく。
さっさと正面玄関に行くのが筋なのはわかっているんだが、ふっと魔が差して、俺は庭へと足を向けた。前にここに来た時は、確か……。
庭を半分ぐらい歩いたところで、俺は我に返った。何をやっているんだ。家の中では、多分リンとリンのお母さんが待っているだろうに。こんな広い家では、あの時リンの部屋に忍び込んだ場所を探すのも大変だ。足を止め、向きを変える。その時、何気なく建物を見上げた俺は、その場で固まった。
……リンがいる。バルコニーの柵にもたれて、こっちを信じられないといった表情で見ている。
「リン!」
リンがいることに気がついた瞬間、俺はリンの名を呼んで、走り出していた。リンに向けて、大きく手を振る。迎えに来たんだって、わかってほしくて。
「レン君っ!」
リンが叫んだ。強張っていた表情がみるみるうちに笑顔に変わり、リンは柵に足をかけて乗り越えて、躊躇することなく飛び降りた。こっちに向かって。
俺は猛ダッシュして、リンが地面に落ちる前に、受け止めることができた。もっとも勢いを完全には殺せなかったので、俺が下敷きになる形で地面の上にひっくり返ってしまったけど。でも、そんなことはいいんだ。
俺は腕を伸ばして、リンをぎゅっと抱きしめた。記憶の中と同じ、柔らかい身体。でも、前より細くなったようにも思える。
「レン君、会いたかったの。すごく会いたかったの」
リンの方も俺にしがみついてきた。俺はリンの髪を静かに撫でる。俺の大事なリン。やっと会えた。
「リン……」
俺はリンの顔を両手で挟み、みつめた。以前に送ってくれた写真と比べると、リンは大分やつれていた。心労が祟ったんだろう。顔にはうっすらと痣が残っていて、俺はいたたまれない気分になった。やっぱり、こんな家に残しておいちゃいけなかったんだ。
「ごめんな……守ってあげられなくて」
言いながら、痣の残るあたりをそっと撫でる。リンがびっくりした様子で目を見張った。あ……俺は知らないことになってるはずなんだっけ。いや、いいや。
「レン君、知ってたの?」
「変な手紙が来たから心配になって、姉貴を問い詰めた。なかなか話してくれなかったけど、しつこく訊いたら教えてくれた」
リンは特別なんだ。放ってなんておけるもんか。俺は、リンの額に俺の額をくっつけた。
「リン。俺と一緒に来てくれ。……俺は、まだ一人前とはいえない。だから、すごく大変だと思うし、たくさん苦労もすることになると思う。だけど、一緒に来てほしいんだ」
俺の言葉を聞いたリンは、幸せそうな表情で笑った。そして、また俺にしがみついた。
「行くわ……レン君と一緒に行く」
リンは、はっきりとそう言ってくれた。きっぱりと、迷いのない口調で。俺は力いっぱいリンを抱きしめた。もう離すもんか。ずっと、一緒にいるんだ。
そうやってリンを抱きしめていると、足音が聞こえた。あ……まずい。リンを見かけたものだからつい突っ走ってしまったが、本当はちゃんと話すために来たんだ。
足音が聞こえた方を見る。品のいい服装をした、年配の女の人がいた。多分、リンのお母さんだ。
「お母さん……」
リンの呟いて、俺の上から降りた。俺は立ち上がり、リンに手を貸して立ち上がらせる。その状態で、俺は頭を下げた。
「……初めまして」
「初めまして。あなたが、レン君ね?」
リンのお母さんはそう言って、静かに笑った。血の繋がりはないはずなのに、その笑顔はリンに似ていた。
「お母さん、どういうこと……?」
リンが自分のお母さんにそう訊いている。どうやら、何も聞いていなかったようだ。
「まずは中に入りましょう。今日はお父さん、帰りは遅くなるはずだから」
リンのお母さんはそう言って、俺たちに背を向けて歩き始めた。リンがどうしよう、と言いたげにこっちを見る。俺はリンを安心させるために笑いかけて、それから手を取った。
「リン、行こう」
「う、うん……」
俺たちは手を繋いだまま、リンの家に入った。前に来た時は、リンが閉じ込められている部屋に脚立で侵入したから、玄関から入るのは初めてだ。つい辺りを眺めてしまう。……本当に広い。
リンのお母さんは、俺たちをある部屋に通した。家具からすると、居間のようだ。テーブルの上にお茶のセットが置いてある。さっき俺がインターホンを鳴らした時、準備してくれたのか。ちょっと申し訳ない気がする。
この部屋には、先客がいた。リンのお姉さんのハクさんだ。俺を見て、頭を下げる。
「こんにちは」
「あ、お久しぶりです」
ここにいるということは、どうやら本当に引きこもりはやめたようだ。
「リン、レン君、まずは座って」
言われたので、俺はリンと並んでソファに座った。リンのお母さんは、椅子の一つに座ると、俺たちに紅茶を薦めてくれた。いい香りがする。
「……リン、ハクから話は全部聞いたわ。レン君と別れた振りをして、ずっと連絡を取り続けていたこと。リンが本気でレン君を好きで、レン君の方もそうだということ」
俺の隣で、リンが目を見開いた。どうやら本当に、何も聞かされていなかったらしい。リンのお母さんが、言葉を続ける。
「考えたの。お父さんは何をするかわからないわ。今回は最悪の事態は避けられたけど、次もそうできるって保証はない。だから、レン君と一緒に行きなさい」
リンのお母さんは、淋しそうだった。リンが瞳を伏せる。
「……いいの?」
リンの声にはためらう響きがあった。俺は黙って、リンを見ていた。今は、俺が口を挟む時じゃない。
「それがリンのためだもの。行きなさい」
「でも……わたしがいなくなったら、お父さん、お母さんを怒鳴るわ」
心配そうな口調で、リンは言った。……それの繰り返しなのか、この家は。それにしても、なんでこのお母さん、リンのお父さんと結婚したんだろう?
「……それが間違いだったの。お母さんは、そんな風にリンを心配させてはいけなかったのよ。リン、お母さんなら大丈夫」
リンのお母さんの言葉には、揺るぎがなかった。ハクさんも、言葉を添える。
「リン、あんたはレン君と行きなさい。……こんなこと言うのはなんだけど、あんたがいない方がカエさんは自由に動けるの」
「レン君と一緒に行ったところで、お母さんとリンの繋がりが切れるわけじゃないわ。今は二十一世紀よ。連絡を取る手段なんていくらでもある。お母さんのことは心配せずに、レン君と一緒に行きなさい。そうして……幸せになって」
リンの瞳に涙が浮かんだ。震える声で、お母さんに答えている。
「うん……わたし、レン君と行くね……お母さん、今までありがとう……」
俺はリンの手を握った。リンを元気づけてやりたくて。リンが俺の手を握り返してくれる。
「さ、荷物をまとめてらっしゃい。すぐに出る必要があるから、必要最低限のものにしておくのよ」
「わかった……」
リンは涙を拭うと、部屋を出て行った。荷物をまとめに行くんだろう。残された俺は、リンのお母さんに頭を下げた。
「リンのことは大切にします。俺はまだ一人前とは言い難いけど、絶対に幸せにしますから」
「……お願い」
そう答えたリンのお母さんの瞳にも、涙が浮かんでいた。以前、リンは自分の母親のことで悩んでいたっけ。でも、やっぱり、リンのお母さんは、今目の前にいるこの人だと思う。産んだのが誰であれ。
しばらく待っていると、足音がして、ドアが開いた。外に出られる装いをした、リンが立っている。
「支度、できたわ」
俺は立ち上がると、リンの許へ向かった。手を握ると、リンはわずかに微笑んでくれた。
リンのお母さんも立ち上がると、棚から封筒を取ってきて、それをリンに手渡した。リンが中を確認すると、パスポートと通帳がでてきた。通帳の中を見たリンが、驚いた表情になる。
「お母さん、これ……」
「持って行きなさい。お母さんの個人的なお金だから、心配しないで。リンがお嫁に行くとき、持たせてあげようと思っていたの」
リンは瞳に涙をいっぱいためて、頷いた。
「……リン、行こう」
俺はリンを連れて、リンの家を出た。リンのお母さんがタクシーを呼んでくれたので、それにリンと一緒に乗り込む。リンのお母さんとハクさんが、見送ってくれた。
俺の家に向かうタクシーの中で、リンは声を立てずに泣いていた。きっと色々、思うところがあるんだろう。こんな風に送り出されるなんて、思ってなかっただろうし。
俺は、泣き続けるリンの肩を抱いた。リンが、自分の頭を俺の肩に預ける。
ここからリンを連れて行く。そしてずっと一緒にいるんだ。
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水乃
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こんにちは、水乃です。
お父さん、帰りが遅くてありがとう! この回を読んでそう思いました。
まあ、何してるかわかりませんけどね、彼の事だから。
今二人が幸せだという事が幸せです(笑)
まさかの展開になったらきっとビックリして叫びそうになるでしょう。
それくらい嬉しいです。
2012/06/27 14:23:39
目白皐月
こんにちは、水乃さん。メッセージありがとうございます。
お父さんですか。多分また愛人のところでしょう。遅くなる時の半分ぐらいは、愛人のところです。でなければどこかで遊んでるか。
もうお話はまとめに入っているので、主役二人に関してはまさかの展開にはならないと思います。
2012/06/28 00:01:28