帰宅すると、靴脱ぎに姉貴の靴があった。……あれ? 今日姉貴、仕事だよな? なんで家にいるんだ? 居間を覗いてみるが、誰もいない。
俺は買ってきたものをとりあえず冷蔵庫にしまうと、二階に上がっていった。姉貴の部屋のドアの前に立って、叩こうとした時、中から姉貴の声が聞こえて来た。
「ああ……まあ、それはそうよ。でもね、それじゃあまずいって、思ってるわけでしょ? 遅くなればなるだけ、行動を起こすのは難しくなるのよ。多分……もう、わかってるんじゃない? 違う?」
誰かと電話してるみたいだな。邪魔するのはやめよう……と言いたいところだが、姉貴の電話って結構長かったりする。俺はため息をつくと、ドアの外から「ただいま」と声を張り上げて、自分の部屋に向かった。着替えて晩飯を作らないと……。
それから三十分ほど経過して、俺が晩飯の準備をしていると、姉貴が下りてきた。
「レン、お帰り。ごめんね、ちょっと電話してて」
「別にいいけど。それより姉貴、早退でもしたの?」
「マイコ先生、風邪ひいて寝込んじゃったのよ。先生がいないと仕事にならないしね」
デザイナーのアトリエでデザイナーが寝込んだら……そりゃ確かに仕事にならないか。そう言えば、あの先生一人で住んでるんじゃなかったっけ。
「マイコ先生って一人暮らしだろ? 放っといて平気なの?」
「昼すぎまではあっちにいて、先生を病院に連れて行ったりしてたのよ。病人食も用意しておいたわ」
あ、そうなんだ。
「もちろん、明日も様子は見に行くわよ」
「行くのはいいけど、うつされないようにしてくれよ」
この時期の風邪は色々と厄介だ。姉貴は丈夫な方だが、万が一ということもある。
「わかってるわよ。……あ、そうだ」
姉貴は何かを思い出したようだった。
「レン、あんた、ブラックバンデージっていうバンド知ってる?」
うん? なんだよ突然。
「全然聞いたことないけど、有名なの?」
「私もよく知らないのよ。ただ、マイコ先生にそこのライブのチケットを貰っちゃったのよね」
姉貴はそう言って、ライブのチケットとやらを俺の前でひらひらと振ってみせた。真っ黒な紙に、白いラインが入っているだけのシンプルなチケットだ。
「どういう音楽?」
「えーと……いわゆる、ヴィジュアル系って奴じゃなかったかしら。インディのね」
……俺の趣味じゃないなあ。
「このチケットの日、私予定入ってるのよね。レン、あんた、良かったら行かない?」
「俺、ヴィジュアル系って興味無いんだよ。クオに訊いてみて、欲しいって言ったらあげてもいい?」
「いいわよ」
了解が出たので、俺は携帯を取ってきてクオにメールを送信した。しばらくして、クオから返信が来る。「その日は忙しいし、俺の趣味じゃない。ヴィジュアル系バンドといや、蜜音がそういうの好きって以前言ってたぞ。あっちに振ってみたらどうだ」と書かれていた。ふーん、蜜音がねえ。つくづく、外見と中身が一致してないなあいつ。
俺は蜜音に、さっきのクオと同じ内容のメールを送信した。返ってきた返信は「ブラックバンデージのライブチケット? 本当にもらっていいの? くれるんなら喜んでもらうけど」だった。へえ、知ってんだ。
「姉貴、クオはいらないって言ってるけど、蜜音がほしいって。あげてもいい?」
「演劇部の子だっけ?」
「そうだよ」
「どうぞ」
俺は蜜音に「姉貴が喜んであげるってさ」とメールを返信した。あ、すぐに返事がきた。早いな。「ありがとう。じゃあ、明日、学校でね」か。「了解」と返信しておく。
どういうバンドかよく知らないが、好きって言ってくれる奴に来てもらった方が、バンドも本望だろう。
「レン……あんた、大丈夫?」
晩飯の支度――ちなみに、今日のメニューは鍋だ――が終わり、いつものように姉貴と差し向かいで食事を始めるやいなや、姉貴はこんなことを言ってきた。
「何が」
「だってほら、これ」
姉貴は菜箸で、鍋の中から白菜をつまみあげた。長い。
「あれ、切ったと思ったんだけど」
おかしいなあ。なんで丸のまま白菜が入ってるんだ。
「よく切らずに入ったわね……」
姉貴はそんなことを言いながら、白菜を菜箸で引き裂き始めた。……器用だ。
「で、何か悩みでも?」
「……別に」
姉貴は俺の前で、ため息をついた。
「もったいぶらずにちゃんと話しなさい」
巡音さんとぎくしゃくしていて苦労しているなんて、姉貴に言えないよ。なんで今日は上手くいかなかったんだ……って、決まっている。俺があれこれに気を取られていて、巡音さんと向かい合うことができなかったからだ。
……多分、自分のせいだって思ってるだろうな。カーテン閉めた部屋の中とかで、ひたすら落ち込んでないといいんだが。いや、今は夜だから、カーテン閉まってるのは当たり前か。って、そんな細かい上にどうでもいいところ突っ込んでどうするんだよ、俺のバカ。
「……レン、レンってば!」
姉貴にでかい声を出されて、俺ははっとなった。
「何?」
姉貴は、俺の顔を見て盛大なため息をついた。
「よそったげるから、貸しなさい」
「ああ、うん」
俺は自分の椀を姉貴に渡した。姉貴は菜箸で、中の具を椀に山積みにし始める。
「はっきり言うけど、あんた、昨日から変よ」
どきっぱりとそう言う姉貴。……確かに、俺から見ても今の俺は変だと思うよ。でも、姉貴に相談するのはなあ……。
俺が姉貴の顔を見ながら困っていると、姉貴は俺の前に、鍋の中身を盛った椀をどんと置いた。
「ほら、食べなさい。白菜、長いからちょっと食べにくいかもしれないけど」
言われるままに、箸をつける。姉貴も食べ始めた。
「あのね、レン」
「何だよ」
「どうしても言いたくないっていうんだったら、無理に言わなくていい。あんたも色々あるでしょうし。でも、自分が何をどうしたいのかをだけは、ちゃんと考えときなさいよ」
何をどうしたいのかを考えろ、か……死んだ父さんも似たようなこと、言ってたよな。
晩飯の後、俺は自分の部屋に戻った。ベッドに寝転がって、考えてみることにする。
今やらなくてはならないこと。これは、演劇部で使う脚本の調整だ。でも……これは本来、俺がやる仕事なのであって、巡音さんは関係ない。いや、原作を貸してもらったし作品の選定の相談にも乗ってもらったし、関係ないってのは言い方が悪いな。巡音さんには調整に関する責任は無い、の方がいいだろう。
巡音さんは、嫌がってはいない。昨日や今朝の態度を見るかぎり、むしろ喜んでつきあってくれている。オペラやバレエの鑑賞が趣味ってぐらいだから、自分で思っているより舞台というものに興味があるのかもしれない。巡音さんの気持ちを考えれば、最後までつきあってもらう方がいい。
で……結局のところ、俺はどうしたいんだ?
巡音さんと一緒に作業するのは嫌か? そんなわけない。
俺はあることを思い出した。遊園地での、巡音さんとの会話。「好き」と「嫌いじゃない」はイコールで結べるのかということ。あの時、巡音さんはこう言っていた。自分の手元にクッキーがあるとしたら、「嫌いじゃない」と言う人よりも「好き」と言ってくれる人にあげたいって。
巡音さんは「嫌いじゃない」という曖昧ではっきりしない気持ちより、「好き」という、はっきりした気持ちが欲しいんだ。
だから……作業するのが嫌か? っていうのは、適切じゃない。
巡音さんと一緒に作業を続けたいか? 答えはイエスだ。
だったら、やることは決まっている。きちんと向き合わないと。
……これだと振り出しに戻るな。向き合えなかったから、今日はぎくしゃくしたんだ。
どうして向き合えなかったんだ? って、俺が変な夢を見たからだよ。巡音さんの翼を折ってしまう夢だ。
俺はもう一度、夢の内容を思い返してみた。翼の折れた巡音さん。その翼を俺が治療してあげて、また飛べるようになった。飛んで行こうとした巡音さんを、俺は引きとめようとして……あ。
……行ってほしく、なかったんだ。
翼の治った巡音さんは、俺の手の届かない場所に飛んで行ってしまうかもしれない。それが嫌だったんだ。
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「……もしもし」
取った電話の向こうで、クオが黙り込む。……おい、お前の方からかけてきたんだろ。
しばらく待っていると、ようやくクオが口を開いた。
「レン……今日のことは悪かったよ」
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