“trick or treat”
お菓子か悪戯か。
最初にその言葉を聞いたのはいつだっただろうか。
私にその言葉を教えてくれたのは誰だっただろうか。
今でこそよく聞くけど、当時の私には縁がなかったその言葉は、子どもの心をワクワクした気持ちで埋めるには十分で。
いつしか単純に繰り返されるようになった退屈な日常を、一瞬にして非日常の宴へ変えてくれる。
そんな気がするのは、今もきっと変わっていない。
黒い雲は満月を覆い隠し、まるで自分の心も隠されてしまったようで。
それを晴らすにはハロウィンの魔法を借りるしかないのだろうか。
私が望むのは『trick』と『treat』、いったいどちらなのだろうか?
数年前までは悪戯なんてごめんだったから、断然お菓子を選択していた。
だけど二年前の今日、大好きな彼によって価値観が揺らいだ。
悪戯にもいろいろあるのだ。それを身をもって実感した。
そういえば、その言葉を教えてくれたのはとある少年だった。
昔。偶然隣にいて、少しだけ話しただけの彼。
もしかすると私にとって初恋と呼べるかもしれない当時の記憶は、今となってはおぼろげで。
覚えているのは、コーヒーとココアの混ざったにおいと、すっかり冷めてしまったアップルパイの微かな味。
名前も知らないし、成長するにつれ顔ももう忘れてしまったけど。
あの少年は、今どこで何をしているのだろう。
<<Jackは甘き夢を見る>>
…迂闊だった。
「三時を過ぎると戦争に巻きこまれるから、その時間帯に決してそこに近づくな」という母の忠告を思い出したのも、もうとっくに店内に入ってしまった後で。
駅の付近にあるこの喫茶店は、ティータイムが近づくと元気とおせっかいの塊と表現すればいいのか――何を隠そう、今日も元気に主婦業を営む奥方達である――、とにかく人で溢れかえるので有名だった。
席待ちをしている奥方達はとにかくおしゃべりを楽しむのに夢中のようで、知らず知らずのうちに声が大きくなり、時折店員に声を抑えるようなだめられてはいたが、そんなものが聞くほど彼女達はおとなしくはないのである。
期間限定のスイーツが今日までと分かった瞬間一直線に飛び込んできた私がバカだった。
ちょうどお茶を楽しむにはいい時間帯だし、いつもより少なからず人がいること自体は容易に想像できたのに。
こんなことになるのなら、混む時間帯を避けて、期間中に何度も限定スイーツが食べられるように予定を立てるべきだったかもしれない。
とは言っても時間は戻らない。時既に遅し、というやつである。
幸いにも主婦の方々は大人数で来ていたためテーブル席が空くのを待つしかなく、一人で来た私は予想していたよりも遥かに早くカウンター席に座ることができた。
一人バンザイ。少し寂しいような気もするが。
メニューを眺めて約一分、早々に食べたいものを決め、店員に注文を告げ終わるとため息をついて椅子にもたれかかった。
おばさまパワーの影響か、もう疲れてしまった。恐ろしいものである。
「大丈夫?大変だったね」
隣から声が聞こえた。
顔を向けてみると、学生服を着た少年がくすくす笑いながらこちらを見ていた。
男性にしては髪が長く、肩ぐらいまであったが後ろで一つに括られていた。
だけど違和感はなく、むしろそれがよく似合っていた。
「ああ…はい。おばさまパワーでやたらと疲れちゃいました…」
「はは、お疲れ様。僕も少し前に来たんだけど、同じような目に遭ってね。しかももっと多かったんだ」
「それは…なんというか、ご愁傷様ですねー?」
「でもほら、もう座れたから大分楽にはなったよ」
コーヒーをすすりながら困ったように笑う少年につられ、思わず私も笑ってしまった。
よく見ると手元には本が開かれていた。傍らにペンが置いてあるところを見ると、勉強中なのかもしれない。
それから十分は経つ頃には、私たちはそれぞれ注文したお菓子に顔を綻ばせていた。
「美味しそうだね」
「美味しいです!」
「確かそれ、今日までの期間限定メニューだよね?かぼちゃのタルトだっけ」
通常喫茶店等に置くメニューではないこのお菓子。
私だって一応女の子で、かぼちゃや栗を使った秋のスイーツも大好きなのだ。
でもだからといって、何も十月の最終日までにしなくてもいいじゃん…。
せめて十一月の中旬まで残してくれるとすごく嬉しいのに。
「それはアップルパイですよね?この店の名物の」
「へえ、そうなんだ。それは知らなかったな」
「あれ?知らないんですか?じゃあなんでさっきかぼちゃの…」
「ああ、あれはただメニューの最初に書いてあったからだよ。ここに来るのは初めてなんだ」
そもそもこの辺りの人間じゃないしね、と付け足すともぐもぐとアップルパイを口に運ぶ少年。
そう聞くと納得がいった。よく考えればこの店の名物なんて常連じゃないとわからないし、メニューに名物とはしっかり書かれていないので初めて来る人はあまりアップルパイを頼まない。
今日はかぼちゃのタルトを頼んだけど、個人的にこの店で一番美味しいのはアップルパイだと思う。
飲み物は正直言ってコーヒーや紅茶系はあまり好きではないのでココアをよく頼むのだが。
やはり中学生に上がったばかりではまだまだ子どもである。悲しいことに。
「…そういえば、さっきこの辺りの人間じゃないって言ってましたよね」
しばらくとりとめのない話に花を咲かせた後、先ほどの話題をふと思い出した私は疑問を問いかけてみた。
「うん。今日は学校が早帰りだったんだけどすぐ帰る気にならなくてね。電車に乗ってちょっと遠くまで来てみたんだ。たまにはそんなのもいいかなと思ってね」
「確かに…ここは駅に近いですもんね」
「そうだね。…ところで、君は見たところ中学生っぽいけど」
「はい、一年生です」
「じゃあ僕と二つ違いだね」
一度にっこりと笑うと、彼は少しだけ表情を暗くする。
「実は僕は受験生でね…ついさっき知り合ったばかりの君に話すことではないんだけど、聞いてくれるかな」
「私でよければ聞きますけど…」
ありがとう、と一息ついてから彼は続ける。
「この間模試があって、その結果が今日返ってきてね。どうもこのままじゃ志望校に受からないかもしれないんだ。行きたい高校のレベルを少し下げなきゃいけないかもしれなくて」
その高校でどうしてもやりたいことがあるのに、担任の先生の話では少し無理かもしれない。
テストの点数も少し下がり、いろいろなことが不安になった。
少しでも良いから自分を知らないところに行きたい。それで気づいたら電車に飛び乗ってたんだ。
彼はそう語った。
「なのに今、僕は自分を知ってもらう話をしてる…矛盾してるよね、なんだか自分でもよくわからないんだ」
「私には、何もできないかもしれません」
「違うんだ。最近嫌なことが重なってちょっとストレスがたまっててさ、今気持ちの整理ができてないだけなんだ」
受験なんてまだ私は遠い話で、そんな実感なんてどこにもない。
そもそも世間の知識をほとんど知らないし、今までのほほんと暮らしてきたお気楽思考の私に、彼の気持ちを分かってあげられるはずがない。
いや、それ以前に知り合って一時間も経ってない中で、こうして話していることが奇跡だといえるだろう。
学校でもなんでもないただの喫茶店で、赤の他人と身の上話をするなんて普通では考えられないことだろう。
少なくとも…私の考える「大人」は、きっとそんな愚かなことをしないだろう。
「だけどさ、今ここで美味しいアップルパイを食べて、君に話を聞いてもらって、少しだけど気が楽になったよ。ありがとう」
「ごめんなさい。聞くだけで、何も力になってあげられなくて」
「いや、聞いてもらうだけでもけっこう心に余裕はできたからね。こちらこそ個人的な話に付き合ってくれてありがとう」
言葉だけで、しかも相手に何の知識もないこの状態では彼の本心は分からない。
だけど、きっとそうだといいなと思った。
「そうだ、冷めちゃったけどアップルパイ食べる?食べかけでよければだけど」
「…もしかして顔に出てました?食べたいって」
「ちょっとね」
すみませんと一言断ってから一口だけもらう。
いろいろな話を聞いた後で少し頭が混乱しているからか、微かにしか味を感じなかった。
「美味しいです」
「そう。そういえば今日はハロウィンだけど知ってる?」
「ハロウィン?」
「そう。とある言葉で、いろいろなお菓子を集めて回るお祭りみたいなものだよ」
そこから彼はハロウィンについていろいろ教えてくれた。
人々は様々な思いを胸に秘めて、お菓子か悪戯か聞きながら回る。
「それは、魔法の言葉だろう。その言葉を口にすれば、相手は必ず選択を迫られる。仮に『treat』を選べば、相手は菓子を与えなければならない。それが無理ならば『trick』となり、悪戯をされる。そこにどんな意思を持って行動するか、今後のことはほとんど自分自身の選択で決まる――なんてね」
そんなふうに伝えられた。
「いつもは淡々として何の意味も持たない日常だけど、たった一言で自分の世界から抜け出して甘い幻想を見ることができる。…だけどそれは一日限りで儚く壊れてしまう。たった一日の短い時間だからこそ、たった一欠片の記憶を後生大事に抱えることができるのかもしれないね」
「まるで物語の中のような話ですね。私、初めて聞きました」
「物語の中身なんて偽りと憧れで着飾った空想に過ぎないけど、そういうの、僕は好きでね」
「私もです」
ひとしきり話して笑って、気づけばもう夕方になっていた。
「あれ?もうこんな時間か。遅くまで俺のどうでもいい話に付き合ってくれてありがとう」
「いえ、楽しかったですよ。…また、会えます?」
席を立った彼の背中に問いかける。
どうしてそんな言葉が出てきたのかは分からない。
だけど私のわがままのような言葉に、彼は笑って答えてくれた。
「いつかきっと、会える時が来るかもね。…さよなら」
『いい夢を』
そう呟いて彼は帰っていった。
彼の悩みは晴れたのだろうか。
彼の重荷は外れたのだろうか。
優しい人だった。
見知らぬ私の話をしっかりと聞いてくれて、一緒に考えてくれた。
また会いたい。そう思った。
私も帰ろうと立ち上がったとき、さっきまで彼が座っていた場所に何かが落ちているのを見つけた。
それはいくつかの星がついた小さなストラップだった。
また会ったときに返そう。そう思って鞄に閉まい、会計を済ませて店を出た。
*
「…ん」
ふと目を覚ますと、いつのまにか自室のベッドに横になっていた。
なんだか懐かしい夢を見た気がする。
だけど夢は大抵目覚めるとほとんどの内容を忘れてしまう。最初なんか絶対に覚えていない。
ケータイを手繰り寄せると、小さな星がついたストラップが目に入った。
なんだっけこれ。
確か、昔会った少年の忘れ物だったか。
何を話したかなんてよく覚えていない。
ただ覚えているのは一緒にお菓子を食べたこと。ハロウィンについて教えてくれたこと。
そして、それ以後何度あの喫茶店に行っても彼には合えなかったこと。
返せないことを知って、私は自分のケータイに付けたのだ。確か。
なんでだろう。
見た夢の内容なんて思い出せないのに。
なぜだか胸が少し苦しくなった。
本当に忘れてもいい記憶だったのだろうか?
なんだかとっても大事に、そっと胸に抱えなければいけない。
そんな記憶だったような気がする。
「ルカ、入るぞ?」
ノックの音に少しびっくりして、急いでどうぞと返すと神威さんが入ってきた。
「ちょっと聞きたいことがあるんだが……どうした?なんか目が虚ろだぞ?」
「え?ああ、さっきまで寝ちゃってたんですよ。それに考え事をしてまして」
「そうか」
先ほどまで考えていたことを頭の隅に追いやり、ケータイを近くの机に置く。
そして彼に向き直る。
そういえば。
全てが変わるきっかけは、二年前の今日、彼が作ってくれたんだっけ。
「ねえ神威さん、ご用件を聞く前に一つだけ、いいですか?」
「なんだ?」
「『trick or treat』――お菓子か悪戯か。どちらがいいですか?」
【がくルカ】Jackは甘き夢を見る【ハロウィン】
夢とは儚く脆く、そして切ないもの。
こんばんは、ゆるりーです。
毎年恒例のハロウィン、今年は『舞台裏シリーズ』から過去話を(去年はコラボのほうに投稿しました)。
タイトルがイタリア語じゃないですけど舞台裏です。
我が家のお二人は昔の話一切してないので、たまにはこんなのもいいかなと。
そして最後の言葉ですが…この後の展開はご想像にお任せします(考えてないだけとはいえない)
ルカさんの初恋の相手はがっくんです。
お互い昔に会っていたことを知りません。がっくんも今よりずっと髪が短いです。
昔もがっくんの一人称は「俺」なんですが初対面ルカさんのためにやわらかく「僕」って言ってますどうでもいいです。
ところで!おそろいの!ストラップって!いいですよねー!(全力)
タイトルの「Jack」は「Jack-o'-lantern」と被せてます。
ジャックはそれしか今回意味ないです。
今回被せてるので、「Jack-o'-lantern」から一部文章をそのまま持ってきています。
ほとんど甘くなくてすみません。
むしろよくあんなに甘いの書けたなと、過去作「Jack(ry」などを読み返して不思議に思ってます。
コメント1
関連動画0
ブクマつながり
もっと見る理解できない何かに。
----------
「調子はどうですか?」
扉をノックすると返事が聞こえる。病室に入ると、中は甘い香りで満たされていた。ストレートに言えば、すごく花のにおいがする。これがスギ花粉とかだったら、一部の人は耐えられないんじゃないかな。
この部屋の主である神威先生(休業中)は...【がくルカ】memory【26】
ゆるりー
12月24日。
街中が白い魔法に包まれる日。
街を歩く人々が、思い思いの感情を胸にその日を祝う。
息を吐けばそれは朝でも夜でも白く舞い上がり、小さく小さく分散されて静かに空中に消えていく。
ふわふわと舞い降りる粉雪は太陽の光で反射してきらきら光り、掴もうとすれば儚く溶けてしまう。
例え街でどんな事件...【がくルカ】前夜祭に抱えし夢は【舞台裏】
ゆるりー
「はーいじゃあ休憩!」
5月23日。
撮影で張り詰めていた空気が一気に和らぐ。
その場に座り込みたいけど生憎今は衣装(しかも制服)、汚れたりしてはいけないので立ちっぱなしである。
「ふう」
持参した水筒を手に取る。
ちなみに中身は麦茶。
暑い時期に飲むのがすごい好き。
現在、一番長いシリーズの撮影中...【がくルカ】Segreto
ゆるりー
結末はどうなるの?
----------
「さあ今日も頑張ろう!」
初音先生がにこやかな笑顔で告げる。対するメンバーは、皆微妙な顔をしていた。
今日は学園祭二日目、最終日である。昨日はライブだったが、今日は演劇である。ずっとステージにいる気がするけど、私に休みはないのか?
「……で、なんで私は...【がくルカ】memory【20】
ゆるりー
「メイコ、おはよ!あ、ついでにカイトもおはよ」
「ルカ、おはよー」
「僕はついでなの!?」
棒読み気味で挨拶をしたのが咲音メイコ。
ルカの一言で傷ついているのは始音カイト。
共に俺、神威がくぽとルカ(巡音ルカ)の 幼馴染である。
ちなみに、こいつらは『Krアパート』の101号室と102...幼馴染とぶっ飛んだ世界【オリジナル】3
Tea Cat
ねえ先生、知っていますか。
どんな人間にも守りたい存在があるんです。
それは形のあるものとは限らないんです。
例えば色褪せた思い出。
目を閉じればいつでも大切な人に会えるんです。
でもそうすると、少しだけ寂しくなります。
やっぱり会いたいんです。
私にとっての守りたい存在。
私はあの時、それを伝えら...【がくルカ】Liar
ゆるりー
クリップボードにコピーしました
ご意見・ご感想
Turndog~ターンドッグ~
ご意見・ご感想
ふふ……これを殆ど甘くないというならば俺の書くラブコメは99%カカオのビターチョコよりも苦いと思うんだぜ(苦すぎだろ
この手の記憶にございません的初めての出会い話っていいよねーw
俺もそう言う話また書きたいけど残念なことにヴォカロ町にその手の出会いを経験してる奴が殆どいないというね(ネタ切れはええな
お揃いのストラップか……
初カノと一緒に買ったストラップ、別れる3日ぐらい前にチェーンが切れるってことがあって、イヤーな予感してたんだよなーっていうそんな経験をした人がいてですねwwww
わ た し で す
2014/10/31 22:37:45
ゆるりー
それはさすがに苦すぎません?w
いいですよねーw
なんということでしょう
へーそんなことあるんですかーw
ご め ん な さ い
2014/11/10 20:24:06