わたしはどうして、生きているんだろう。
 たまに、そう思ってしまう時がある。そういう風に考えるのはよくないのだろうけど、自分が生きているのが不思議に思えることがあるのだ。
 部屋に閉じこもって、ミミを膝に抱いて撫でながら、ぼんやりとする。ソウイチさんに殴られてからというもの、わたしはそんな風にしてばかりいた。お父さんに急に部屋に来られる心配がなくなったから、ミミはたいていは、わたしのベッドの上にいる。寝る時は、いつもミミを抱いて寝た。
 その日も、わたしは部屋で物思いに沈んでいた。これからのことを考えたら、いつまでもこうしてはいられない。四月からは新学期が始まる。将来を考えるのなら、ちゃんと大学に行かなくては。
 レン君もミクちゃんも、わたしを心配している。お母さんだってハク姉さんだって、そうだ。だからわたし、どうにかしないといけないのに……。
 泣きそうになってしまい、わたしは手の平に爪を食い込ませた。ちょっと気が緩むと、なんでもないのに涙がこみ上げてきてしまう。
 ひびだらけのガラス細工って、こんな気持ちなのかもしれない。少し力がかかると、ぱりんと壊れてしまう。わたしも多分、少し力が入ったら、ひびが大きくなって、そこから砕けてしまうんだ。
 なんだか息苦しくなって、わたしは立ち上がった。そのまま窓へと向かい、カーテンを開く。今は夜だから、当然、空は暗い。
 外の空気が吸いたくなったわたしは、鍵を外して窓を開けた。ひんやりとした夜風が、わたしを包む。……気持ちいい。
 もっとちゃんと風を浴びたい。わたしはバルコニーに出た。そのまま柵にもたれて、わたしは風に身を任せた。このまま、たんぽぽの綿毛みたいに飛んで行けたらいいのに。子供のようなそんな夢想が、心に浮かぶ。ふわふわとどこまでも。この柵を乗り越えたら、わたしも飛んで行けるのかな。
 わたしはふっと下を見た。いつもの庭。夜だけど、明かりがあるから、真っ暗じゃない。だから見えた。庭に、人影が立っているのが。
 誰……? そう思った時、人影が向きを変えた。顔が視界に入る。わたしは、驚いて声をあげた。
「レン君……!」
 そこにいたのは、レン君だった。何故? どうして? 遠く離れたアメリカにいるはずなのに。わたしはただ、庭に立っているレン君を見つめていた。
「リン!」
 レン君が、こっちに駆け寄ってくる。わたしに向けて、大きく手を振った。夢でも幻でもないんだ。
「レン君っ!」
 わたしは叫んだ。行かなくちゃ。レン君が来てくれたんだから。我慢なんてできなかった。一刻も早く、レン君のもとに行きたかった。
 わたしはバルコニーの柵をつかんで足をかけ、乗り越えた。そしてそのまま、身を躍らせる。高さがあったけど、怖いとは思えなかった。
 軽い衝撃があって、わたしは落ちた。レン君の上に。レン君がわたしを、受け止めてくれたのだ。勢いで、両方とも芝生の上に倒れこんでしまったけど。その状態で、レン君がわたしを抱きしめてくれる。……懐かしい感触。わたし、ずっとこれを待ってたんだ。
「レン君、会いたかったの。すごく会いたかったの」
 わたしはレン君にしがみついた。レン君が、いつものようにわたしの髪を撫でてくれる。それだけで、わたしは安らいだ気持ちになった。
 ……嫌だ、レン君と離れ離れになるなんて。ずっと一緒にいたい。離れたくないの。
「リン……」
 レン君は、わたしの顔を自分の両手で挟んだ。すぐ近くに、レン君の顔がある。真剣な瞳でみつめられて、わたしは少し気恥ずかしくなった。まだ、顔に痣が残っているのよね。大分薄くなってはいるけれど……。痣のこと訊かれたら、なんて答えたらいいんだろう。
「ごめんな……守ってあげられなくて」
 痣の残る辺りを指で優しく撫でながら、レン君はそう言った。はっとなる。このこと、言わないでって頼んだのに。
「レン君、知ってたの?」
「変な手紙が来たから心配になって、姉貴を問い詰めた。なかなか話してくれなかったけど、しつこく訊いたら教えてくれた」
 あの手紙では、ごまかせなかったんだ。……でもいい。こうしてレン君に会えたんだもの。レン君が、わたしの額に自分の額を押し付ける。
「リン。俺と一緒に来てくれ。……俺は、まだ一人前とはいえない。だから、すごく大変だと思うし、たくさん苦労もすることになると思う。だけど、一緒に来てほしいんだ」
 その言葉の意味を理解した時、わたしの胸に広がったのは嬉しさだった。レン君、わたしを迎えに来てくれたんだ。予定よりずっと早いけど、そんなのは構わない。
「行くわ……レン君と一緒に行く」
 わたしは、またレン君にしがみついた。もう離れない。わたしを連れて行って。あの日の約束どおりに。レン君もわたしを抱きしめてくれる。
 そうやって、芝生の上で互いを抱きしめあっていると、不意に足音が聞こえた。はっとして、思わず顔をあげる。レン君に会えた嬉しさで何もかも忘れていたけど、ここは我が家の庭だ。誰かが来てもおかしくはない。わたしは、足音の聞こえた方を見た。
「お母さん……」
 そこにいたのは、お母さんだった。わたしたちを見ている。どうしよう……。わたしは無意識のうちに、レン君の上から下りた。レン君が立ち上がり、わたしに手を貸して立ち上がらせてくれる。
「……初めまして」
 レン君は、お母さんに向かって頭を下げた。お母さんが、くすっと笑う。怒って……ないの?
「初めまして。あなたが、レン君ね?」
 お母さんの口ぶりは落ち着いていて、少しも驚いていなかった。まるで、レン君が来るのを知っていたみたいに。わたしはレン君の顔を見て、それからお母さんの顔を見た。
「お母さん、どういうこと……?」
「まずは中に入りましょう。今日はお父さん、帰りは遅くなるはずだから」
 お母さんはそう言って、家に向けて歩き始めた。わたしは少し困って、レン君の方を見てしまう。レン君が、安心させるように笑いかけて、わたしの手を握ってくれた。
「リン、行こう」
「う、うん……」
 わたしはレン君と連れ立って、家に入った。お母さんは、わたしたちを居間に通した。お母さんが自分のお客さんを呼ぶ時は、たいていはこっちで出迎える。応接室は堅苦しくて苦手なの、と、お母さんは以前言っていた。
 居間のテーブルの上には、四人分のお茶が準備されていた。そして、椅子の一つに、ハク姉さんが座っていた。
「こんにちは」
 ハク姉さんはレン君を見ても全く驚かなかった。レン君がハク姉さんに「お久しぶりです」と返している。わたし以外、みんな知ってたってこと?
「リン、レン君、まずは座って」
 お母さんが、ソファを指した。わたしは、レン君とソファに並んで座る。お母さんが、紅茶を淹れてくれた。いただきます、と小声で呟いて、カップに口をつける。
「……リン、ハクから話は全部聞いたわ。レン君と別れた振りをして、ずっと連絡を取り続けていたこと。リンが本気でレン君を好きで、レン君の方もそうだということ」
 わたしは驚きすぎて、もう少しでカップを落としてしまうところだった。お母さんが淋しそうな表情で、言葉を続ける。
「考えたの。お父さんは何をするかわからないわ。今回は最悪の事態は避けられたけど、次もそうできるって保証はない。だから、レン君と一緒に行きなさい」
 わたしはお母さんを見つめた。こんなことを言い出されるなんて、思ってもいなかったから。
「……いいの?」
 さっきレン君には「一緒に行く」と言ってしまったけれど、いざこんな風に言われると、ためらう気持ちがわいてきてしまう。
「それがリンのためだもの。行きなさい」
「でも……わたしがいなくなったら、お父さん、お母さんを怒鳴るわ」
 今までだって、お父さんはわたしのことで、散々お母さんを怒鳴ってきた。躾が悪いとか、育て方が悪いとか。わたしが理想的な娘に育たなかったのは、全部お母さんのせいだって。わたしがいなくなったら、お父さん、それこそお母さんに当り散らすだろう。
「……それが間違いだったの。お母さんは、そんな風にリンを心配させてはいけなかったのよ。リン、お母さんなら大丈夫」
「リン、あんたはレン君と行きなさい。……こんなこと言うのはなんだけど、あんたがいない方がカエさんは自由に動けるの」
 横から、ハク姉さんが口を挟んだ。わたしがいない方が、自由に動ける……?
「レン君と一緒に行ったところで、お母さんとリンの繋がりが切れるわけじゃないわ。今は二十一世紀よ。連絡を取る手段なんていくらでもある。お母さんのことは心配せずに、レン君と一緒に行きなさい。そうして……幸せになって」
 涙で視界がぼやけた。お母さん……ありがとう……。
「うん……わたし、レン君と行くね……お母さん、今までありがとう……」
 レン君が、わたしの手をぎゅっと握ってくれた。温かくて、力強い手。わたしも握り返した。
「さ、荷物をまとめてらっしゃい。すぐに出る必要があるから、必要最低限のものにしておくのよ」
「わかった……」
 わたしは頷いて、二階へと上がって行って、自分の部屋に入った。クローゼットから大きめの旅行鞄を取り出すと、その中に着替えと身の回りの品を入れる。そんなにたくさんは持って出られないから、本当に最低限のものだけ。
 後は、何がいるだろう? そうだ、あれを持って行かないと。わたしは、隠し場所からレン君の手紙を取り出した。手紙と、ベッドの上に座っていたミミを鞄に入れる。それから少し考えて、机の上にあった小物入れのような、細かい品をいくつか追加した。……これでいい。
 鞄を閉めると、わたしは身支度を始めた。今の格好は部屋着だから、外に出るには不適切だ。着替えをして、コートも羽織る。これで、支度はできた。
 わたしは部屋を見回した。部屋は変わったけど、調度品はわたしの部屋にあったものだから、馴染みのあるものばかり。わたしと同じ時間を過ごしたものたち。
 ……けど、もう必要ない。いらないものは、置いていく。
 旅行鞄を提げて、わたしは階段を下りて行った。玄関ホールに鞄を置いて、居間へと戻る。
「支度、できたわ」
 レン君が立ち上がった。わたしの傍に来てくれる。そしてわたしの手を、静かに握ってくれた。
 お母さんが、大きめの茶封筒を渡してくれた。開けてみると、わたしのパスポートと、銀行の通帳と印鑑が入っている。通帳を開いてみて、わたしは驚いた。
「お母さん、これ……」
「持って行きなさい。お母さんの個人的なお金だから、心配しないで。リンがお嫁に行くとき、持たせてあげようと思っていたの」
 お母さんの口調は、有無を言わせなかった。わたしは黙って頷いた。さっきから、ずっと視界が歪んでいる。
「……リン、行こう」
 わたしはレン君に連れられて、二十年間暮らした家を後にした。お母さんとハク姉さんが、見送ってくれた。
 お母さんが呼んでくれたタクシーにレン君と一緒に乗り込んでからも、わたしはしばらく何も考えられなかった。頬を涙が伝うのを感じる。嬉しいのか淋しいのか、それもよくわからない。
 さようなら、わたしの家。わたしが子供時代をすごした場所。早く出て行きたいって思ってたけど……。
 レン君がわたしの肩を抱いてくれた。温かい腕。レン君の肩に、わたしは自分の頭を預けた。
 わたしたちは、ずっと一緒。もう離れ離れには、ならない。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

ロミオとシンデレラ 第七十七話【水晶の心が砕ける時】

 やっとここまで来れました。
 後は後日談っぽいエピソードになります。
 もちろん外伝もあるんですが。

閲覧数:1,320

投稿日:2012/06/26 23:29:20

文字数:4,700文字

カテゴリ:小説

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