ハク姉さんとひと悶着あってから二日後。放課後に、鏡音君がわたしに声をかけてきた。
「巡音さん、ちょっといい?」
「……鏡音君、どうしたの?」
例の「好き」と「嫌いじゃない」の話のおかげか、わたしたちは、また普通に話せるようになっていた。……ミラーハウスでのことは事故だったと思って、忘れた方がいいのよね。……きっと。
でも……忘れてしまおうとすることを、ちょっと淋しく感じてしまうのは、何故なのかな……。
「実はちょっと相談に乗ってほしいことがあって」
鏡音君に言われたことがあまりに意外で、わたしは驚いてしまった。
「え……わたしに?」
相談って一体何を? 鏡音君の周りには、わたしよりも相談に向いた人がたくさんいそうだけど……。
「そうだよ。多分、巡音さんが一番適任だと思う」
鏡音君はあっさりとそう言った。……どうしよう。わたしが役に立つとは思えないけれど……でも、折角こう言ってくれてるんだし、やらないで諦めちゃ、駄目よね……?
あ、でも……連絡しておかないと、怒られてしまう。
「それ、長くかかる?」
「……かもしれない」
じゃあ、やっぱり連絡を入れておかないと。
「わかったわ。……少しだけ待ってて」
わたしは携帯を取り出して、運転手さんとお母さんにメールを送った。理由は……今日は、ミクちゃんに頼むわけにはいかないわね。もう帰っちゃったもの。図書室で調べたいことができたってことにしておこう。少し苦しいけれど。
「お迎えを遅らせてもらったから、しばらくは大丈夫。それで、相談って何?」
「あ~、うん、それなんだけど……巡音さん、文学に詳しいだろ。だったら、戯曲とかも詳しかったりする?」
戯曲? 確かに幾つか読んだけれど……。シェイクスピアの主要な作品とかには、大体目を通している。でも正直言うと、戯曲は苦手。あれは読むより見た方が面白いんじゃないかな。
「少しは……詳しいってほどじゃないけど」
「例えば、どんなの読んだ?」
「シェイクスピア、チェーホフ、メーテルリンク、カルデロン、イプセン、ブレヒト……あ、後ギリシア悲劇とかも読んだけど、それくらいよ。それに全部の作品に目を通したわけじゃないし……代表作ぐらいしか読んでないわ」
だからあんまり専門性を求められても困ってしまう。一作しか読んでない人もいるし……。
「それだけ知ってりゃ充分だよ。少なくとも、俺よりずっと詳しいだろうし」
そういう観点で物事を考えていなかったので、わたしはどういう返事をすればいいのかわからず、黙りこむことになってしまった。
「実は今、演劇部の来年四月の新入生歓迎公演でやる作品探してんだよ。グミヤの奴、部長のくせに俺に全部任せたとか言いやがって」
演劇部の公演の話なんだ。それで戯曲がいるのね。あれ、でも、確か……。
「そういうのって、専門のがあるんじゃなかった? 図書室で見かけた記憶があるんだけれど」
学生向けの演劇の本が置いてあったはずよね。あれじゃ駄目なの?
「普通はね。だけど顧問が、『どうせやるなら文学作品を』って、無茶なこと言い渡してきてさ」
鏡音君は呆れをふくんだ口調でそう言った。
「なんだか大変そう……」
こう言ってはなんだけれど、あの手のものはやっぱり、難しい作品が多い。それにものによっては時代が大幅に違うから、それだけで色々大変そうだし。
「実際、大変だよ」
あれ? でも、演劇部の学祭での公演って、ロボットが人間を滅ぼしちゃうお話だったわよね。
「ねえ、鏡音君。学祭の時の公演は? あれ、未来のお話でしょ?」
あれも文学作品だったのだろうか。
「ああ、あれは作者がチャペックってことで、強引に押し切ったんだよ。チャペックなんだから充分文学のカテゴリに入るだろ。噂じゃノーベル文学賞の候補になったこともあるっていうし」
鏡音君はそんな説明をしてくれた。チャペックって……チェコのカレル・チャペックのこと?
「え……あれ、チャペックだったの? チャペックって、『ダーシェンカ』や『長い長いお医者さんの話』書いた人よね?」
『ダーシェンカ』は、チャペックが飼っていた犬のために書いたお話やエッセイを集めた本で、可愛らしさにあふれている。読んだ後でミクちゃんに貸してあげたら、ミクちゃんもすっかり気に入ってしまい、自分でも買い込んでしまったぐらい。『長い長いお医者さんの話』は、ちょっと不思議な味わいにあふれた童話で、他にもチャペックは幾つかこういう作品を書いている。
「あ……知ってたんだ。そうだよ」
「小さい頃、『郵便屋さんの話』好きだったの……同じ人が書いたとは思えないわ」
ヒドラが出てくる話も好きだった。主人公がとてもいい人で。でもそんな主人公に、「世の中」が、ヒドラを飼っているというだけで無理難題を吹っかけるのだ。
「ああ、まあ、そうかもね」
「あ、でも、『マクロプロス』を書いたのもチャペックよね……」
あれは、確か荒唐無稽のファンタジーっぽいストーリーだったはず。といっても見たことは無いのだけれど。
「よくそんなの知ってるなあ……」
鏡音君は『マクロプロス』のことも知っているようだった。オペラには詳しくないみたいだから、原作を読んだのかな。
「見たことはないの。ヤナーチェクの作品リストに入ってたから知ってるだけで」
「ヤナーチェクって誰?」
「チェコの有名な作曲家。『マクロプロス』をオペラにしたの」
有名ではあるけれど、歌詞が全部チェコの言葉ということもあって、上演される機会は少ない。わたしも見たことがあるのは『利口な女狐の物語』ぐらいだ。
「ああ……なるほど」
鏡音君は頷いて、それからはっとした表情になった。
「チャペックについて語りだすと際限無くなりそうだから、話戻すよ」
あ……いけない。すっかりチャペックの話になってしまっているわ。わたしは頷いた。
「とまあ、そういうわけで戯曲を探しているんだけど……巡音さん、好きな戯曲とかある?」
好きな戯曲……。わたしが好きなのって言ったら……。
「……メーテルリンクの『青い鳥』」
子供っぽすぎるって、言われちゃうかな。でもこれが好きなの。幼い兄妹が、妖精のおばあさんに頼まれて「幸せになれる青い鳥」を探して不思議な国を旅するお話。綺麗で不思議なものがたくさんでてくるんだけど、それだけじゃなくて、もっと深いところで輝くような何かが詰まっている話。
「兄妹が幸せの青い鳥を探しに行く話だよね?」
わたしは頷いた。
「それ、絵本だか童話だかじゃなかったっけ?」
「絵本としてリライトされたものが出てるけれど、もともとは子供に見せるための戯曲として書かれたものなの」
わたしも、最初に読んだ時は絵本だった。少し成長してから、大人向けの版が出ていることを知って、手にしてみて戯曲であることを知って驚いた。大人向けの版なので、幸い今もわたしの部屋の本棚に置いてある。
「メーテルリンクという人は、なんでもない日常から宝石を見つけ出せる人だったと思うの。『青い鳥』を読むと、細かい描写からそういうことを感じられるの。それとね、この戯曲は衣装の設定一つ一つにも夢があるのよ。光の精や水の精の衣装が『ロバの皮』っていう、別のおとぎ話の衣装だったりするの」
そんなところから、メーテルリンクのこだわりのようなものが感じられる。……そう言えば、『ロバの皮』は、フランスの童話作家、ペローの話だ。メーテルリンクはフランス語圏のベルギーの作家だから、シンパシーが強かったのかも。兄妹の妹の方が着る衣装は、確か、赤ずきんちゃんの衣装だし。あれもペローよね。
「……ちょっと話がズレるけど、探していた青い鳥って、確か自分の家にいたんだよね?」
「ええ」
一年――夢の中と説明されているけれど――不思議な国々を旅しても、青い鳥は見つからなかった。思い出の国でもらった鳥は黒くなってしまい、夜の国で捕まえた鳥は死んでしまい、未来の国で見つけた鳥は赤くなってしまう。でも、朝になって目覚めた兄妹は、元々飼っていた鳥が、青く変わっていることに気づくのだ。
「結局幸せは自分の家にいるってこと?」
「……違うと思うけど」
そういう側面のある話だけれど、それなら「幸せの国」で既に説明されている。
「というと?」
「だって、鳥を探していたのは自分たちのためじゃなくて、病気の女の子のためだもの。目的を果たせなかったことを残念に思う二人の気持ちを受けて、元々家で飼われていた鳥が、青く変わったんじゃないかしら」
家にいた青い鳥をプレゼントすると、女の子の病気は治ってしまう。そして最後に、青い鳥は飛んで行ってしまう。
「それに、最後、青い鳥は飛んで行ってしまって、泣き出す女の子にお兄ちゃんの方が『また見つけてあげるよ。ここに来た人、鳥が飛んできたら、捕まえておいてください』って言うところで終わるの。劇場に来た人たちに『青い鳥が自分のところに飛んで来るかも』と思わせる為に、そうしたんじゃないかしら。このお芝居から、希望を持って帰って下さいって」
わたしは何気なく、窓の向こうに視線を向けた。青い空が広がっている。青い鳥の姿は見えないけれど――。わたしが幼い子供でこの劇を見たら、青い鳥が自分のところに飛んでこないかと思って、窓を開けて外を眺めただろう。
そう言えば、別の人の作品だけど、『希望は羽根のある小鳥』という詩があった。きっとこの人のイメージする希望も、同じような姿なのだろう。
「兄妹以外にどんなキャラクターがいるんだっけ?」
鏡音君はそんなことを訊いてきた。えーっと……。
「主人公の兄妹の他に、兄妹と一緒に旅をするのが、犬の精、猫の精、光の精、パンの精、砂糖の精、牛乳の精、火の精、水の精。それから二人の両親とか、妖精のおばあさん――お隣さんと一人二役だと思うんだけど――とか、行く先々の国で出会う不思議な存在とかがいるけど」
二人の家にあるものが、人のような姿を得てついて来るのだ。自発的に来るのは犬と光だけで、他はいやいやだけど。でも、猫以外は、お別れの挨拶を聞く限り、最終的には兄妹のことを好きになってくれたのだと思う。猫だけはよくわからない。
「旅するのは?」
「思い出の国、夜の国、森――木々と動物たちが出てくるの――、幸せの国、未来の国よ」
墓地とかにも行くけど、兄妹と光ぐらいしか出てこないから、勘定に入れなくてもいいかな。
わたしが話すと、鏡音君は残念そうに両手をあげた。
「……ごめん、そいつをやるのは無理。一幕しか出て来ないのは使いまわすにしても、必要なキャストが多すぎる。セットとか衣装とか、そっちのこともあるし」
言われてみればそうよね。全員がいつも一緒にいるわけじゃないし、兄妹以外で主要なのは犬、猫、光ぐらいだけど。キャストが少なすぎても淋しい感じになってしまうだろう。それに、背景とか衣装とかきちんとしないと、雰囲気が全然伝わらないだろうし……。でもちょっと残念だな。『青い鳥』見てみたかったのに。
「演劇部って、部員は何人なの?」
「二年が八人、一年が七人、合計十五人。ただ、照明や音楽を担当する奴も必要だから、全員が舞台に上がるのは無理。あ、半分以上は女子だけど、男役をやるのに抵抗のない奴が多いから、男女比率は気にしなくていいよ」
それだと、キャストが十人ぐらいの作品の方がいいのかな? それで、セットとかを比較的揃えやすそうなとなると……。
「じゃあ、チェーホフの『桜の園』は?」
物悲しい幕切れで、あまり好きな作品ではないけれど、手間とかを考えるとこれがいいかもしれない。人数もそんなに多くなかったと思うし。セットにしても、テーブルとか椅子ぐらいで何とかなる……と思う。わたしはオペラとバレエ以外の舞台はあまり見たことがないから、そう断言することまではできないけれど。チェーホフの作品はオペラになってないし。
「何一つ自分で決めることのできない主人公が、決断を先延ばしにしたあげく自滅する話だよね?」
え……。
わたしは何を言えばいいのかわからなくなってしまった。鏡音君は『桜の園』の内容のことを言っているだけ。けれど、なんだか自分のことを言われたような気になってしまう。……わたしは、物事を決めるのが苦手だ。それだけじゃない。ラネーフスカヤ夫人と同じように、わたしも無力で、泣くことしかできない。思わず下を向いてしまう。
「あ……あの……巡音さん……」
わたしの前で、鏡音君があせった声を出している。……駄目だ、こんなのじゃ。しゃんとしなくちゃ。せめて気持ちだけでも。
「……平気」
わたしは一度唇を軽く噛んで、それから顔をあげた。
「確かにあの話にはそういう側面もあるのよね。ただ……わたし、最後に桜の園が無くなってしまうというのが、とても悲しくて。だって、そこにずっとずっとあったのよね。広い土地に生えたたくさんの桜の木。春になると一面が真っ白な花で埋まるの。無くなったら、もう戻って来ないのよ」
捨てられてしまった大切なものと同じで、もう帰って来ないんだ。時代の流れには誰も逆らえないのかもしれないけれど、綺麗なものが消えていくという事実が、とにかく悲しい。
「……ラネーフスカヤのようにはなりたくないの」
どうしたらいいのかはわからないけれど、この気持ちだけは忘れないようにしないと。
「巡音さんなら大丈夫でしょ?」
鏡音君がそう言ってくれた。励ましの言葉だろうけれど、やっぱり嬉しい。
「……ありがとう」
「あの……で、話戻すけどさ。『桜の園』は、確かに上演するのには問題無さそうなんだけど――新入生歓迎公演でやるには、ちょっと話の中身が暗すぎる気が……明るい話の方が、興味を持ってもらえそうなんだよ」
鏡音君の言葉を聞いて、わたしはまた考え込んだ。確かに物悲しい話だから、歓迎公演に適してるとは言いがたいかもしれない。チェーホフの他の作品も、大体そんな感じよね。セットとかの問題はないんだけど、とにかく暗い。
ロミオとシンデレラ 第二十七話【お芝居には恋愛が必要】前編
そう言えば、兄妹が主役なのに、『ヘンゼルとグレーテル』と比べると、『青い鳥』ネタって無いですよねえ。知名度はかなり高いはずなのに。
やっぱりメーテルリンクの原作のレベルが高すぎていじりにくいのでしょうか……。
ちなみにミチルの衣装は正確には「グレーテルもしくは赤ずきん」と指定されています。
なお、作中でリンが「チェーホフ作品はオペラになっていない」と言っていますが、実際には『三人姉妹』のオペラがあるそうです。ただ、マイナーな作品なので「知らない」という設定でもいいかなと思い、知らないということにしています。
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注意書き
これは、拙作『ロミオとシンデレラ』の外伝です。
リンの継母である、カエ(オリジナルキャラ)の視点で、第十一話【冷たくもなく、熱くもない】のサイドエピソードとなっています。
したがって、『ロミオとシンデレラ』を第十一話まで読み進めてから、読むことを推奨します。
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