月曜の朝、登校してきた俺は、学校の校門のところに、見覚えのある車が止まっているのに気づいた。あれは巡音さんのところのだ。
見ていると、運転手さんが車から降りて後部座席のドアを開けた。車の中から巡音さんが出てくる。運転手さんは一礼して車に戻り、そのまま発進して行った。巡音さんは、校舎に向けて歩き出す。
「おはよう、巡音さん」
俺は、その背中に向けて声をかけた。巡音さんが振り向く。
「あ……おはよう、鏡音君」
……なんだか元気が無いような? もともと淡々と喋る子だけど、今日はいつもにも増して淡々としている。昨日夜更かしでもしたのかな。
「週末にあれ見たんだ。巡音さんが貸してくれた『ラ・ボエーム』」
俺はそこで言葉を止める。巡音さんが「どうだった?」と訊いてくると思って。
「そうなんだ……」
えーと。想像してたのとは全然違った反応が返って来たので、さすがにちょっと戸惑う。
「姉貴が暇だったらしくて一緒に見たんだけど、見ていたら姉貴が怒り出しちゃってすごかったよ。『こんのヘタレ男』って、ロドルフォのことを怒鳴りまくっちゃって。うちの姉貴、感情の起伏が激しいもんだから。何もそんなに怒らなくてもいいと思うんだけどさ」
自分の感想よりも姉貴の反応の方がネタになりそうだったので、こう振ってみる。驚くとか笑うとか呆れるとか、何か反応が出てこないかなと思って。
「…………」
無反応だよ。……よく考えてみたら、俺は巡音さんに自分の家族構成のことを話したことがなかった。いきなり知らない人の話を出されて戸惑ってるのかな。
「巡音さんはどう思う?」
結局こう訊いてみる。まあ幾らなんでも巡音さんは、姉貴みたいに怒り狂ったりはしないだろうけど。
「……お姉さんのこと?」
いや、姉貴のことじゃなくって。って、姉貴の話を出したのは俺の方か。
「そうじゃなくて、『ラ・ボエーム』のこと」
「プッチーニの代表作の一つよね。彼の作品の中では一番ロマンティックと言われていて、現代でも人気が高いわ」
あのう……。何その「オペラ手引書」の説明文みたいな台詞……。
「俺が訊きたいの、そういうのじゃないんだけど」
巡音さんの返事は無い。……要領を得ない会話に、さすがに俺もいらいらしてきた。
「だからさあ、巡音さんは『ラ・ボエーム』をどう思っているわけ?」
「…………」
何で黙るんだろう? 別にどんな反応が返って来ても驚きゃしないんだけど。何せ姉貴がああだったからなあ。巡音さんが姉貴と同じことを言うとは思えないし。
「何も評論家みたいなこと言わなくてもいいから。『こんな恋愛してみたい』とか『ミミよりムゼッタの方がすてきだと思う』とか、そんな単純なのでいいんだってば。なんならうちの姉貴みたいに『ロドルフォのヘタレ顔を洗って出直してきやがれ』とかでもさ。なんかないの?」
でも、巡音さんの返事はこうだった。
「別に……」
「巡音さんには自分の意見ってものがないの?」
思わず、俺はかなりきつい調子でそう言ってしまった。言った瞬間、巡音さんがはじかれたように顔をあげる。……やべっ。やっちまった。
「そんなこと……訊かないでよ……」
俺の見てる前で、巡音さんが自分の肩を抱いて、震えだした。様子がおかしい。
「……巡音さん?」
「それに……そんな言い方しないでっ! 言われても困るの! わたしは……わたしはっ……!」
悲鳴みたいな声だった。俺は唖然として、巡音さんをみつめた。どうしちゃったんだ? それに、ここは校門だよ。周りの視線が痛い。
「ちょっと巡音さん、落ち着いて」
俺は腕を伸ばして、巡音さんの肩を抑えた。まずは落ち着いてもらわないと。これじゃ話もできやしない。
巡音さんは目を見開いて、こっちを見ている。その身体がふらっとよろめいて……。
「ガラスが……」
「巡音さん? ちょっと、巡音さん!?」
俺は倒れかけた巡音さんの身体を咄嗟に支えた。げ……気を失っちゃってるよ。おまけに真っ青だ。そんなに具合が悪かったのか? まずいことしちゃったな……。
「巡音さん、しっかりして」
軽くゆすってみるが、目を覚まさない。このままにはしておけないな。保健室に連れて行こう。
あの後、俺は通りかかった知り合いの手を借りて――幾らなんでも、気絶した人間を担いで歩くのは無理だ――巡音さんを保健室に運び込んだ。
「先生、巡音さんはどうしちゃったんですか?」
校医の先生に俺は訊いてみた。
「貧血でしょうね。この年頃の女の子にはよくあることよ」
そう言って先生はため息混じりに、ベッドの上の巡音さんに視線を向けた。
「ただでさえ最近は、雑誌とかの影響で過激なダイエットに走っちゃって、そのせいでひどい貧血を起こす子が増えているのよね……」
「ダイエットが必要そうには見えませんけど……」
そもそも、ダイエットなんてしてるのか? 初音さんの家で会った時は、普通に食事してたけど。
「そういう子の方がダイエットに血眼になっちゃうのよ。全く、世の中の風潮にも困ったものね……」
……先生、何だか完全にダイエットのせいって決め付けちゃってるけど、せめて本人の口からダイエットしてるかどうかを聞いてから、そう言ってくれませんか。
俺は気を失っている巡音さんを見た。血の気が無いせいか、ひどく弱々しく見える。
「ところであなた、そろそろ行かないと、授業が始まっちゃうわよ」
正直言うとあんまり行きたくない。この状態の巡音さんを放っておくのは気が進まないし。
「……傍についてたら駄目ですか」
「あなたが残っていてもできることなんてないでしょう? むしろ邪魔なんだから、早く行きなさい」
そこまできっぱり言わなくてもいいじゃないか……。俺は恨めしげに先生を見たが、向こうは全然動じていなかった。仕方ない。
「わかりました。行きます」
「わかればよろしい」
……なんかいらいらするな。
結局、巡音さんは教室には戻って来なかった。俺は昼休みに保健室に行ってみたが、校医の先生に「早退した」と言われてしまった。状態をしつこく詮索するとまたあれこれ言われそうだったので、そこで引き上げる。
その日、俺は結局授業にも部活にも集中できなかった。らしくないぞ、と、自分で自分に突っ込みを入れてみるが、事実なんだから仕方がない。
「……レン、お前、今日なんか変だぞ」
クオにまでそう言われてしまった。
「なあ、クオ。あのさ……」
「なんだよ」
「……やっぱいいや」
幾らなんでも巡音さんのメールアドレスは知らないだろう。初音さんなら知っているだろうけど、そのためにクオに初音さんに連絡してもらうのもな……。
「言いかけたことは最後まで言えよ」
「大したことじゃないからいい」
「気になるだろ」
俺はちょっと考えて、違うことを訊いてみることにした。
「クオ、お前、なんで恋愛映画嫌いなんだっけ?」
露骨にはあ? という顔をされてしまった。多分「本当に大したことじゃないな」とでも思っているんだろう。
「だって退屈じゃないか」
「そんだけ?」
「なんかずーっとうだうだやってるだけだろ、あれ。俺には理解できない世界なんだよ」
まあ、俺もそんなに面白いとは思わないけど。
「初音さんは好きそうなのに」
「ミクはな~、基本的に、可愛らしいもんが好きなんだよ。動物が出てくる映画とかも好きだぜ、あいつ。そっちならまだ見てられるんだけど、恋愛映画は、俺はパス」
クオの言葉を聞きながら、俺は巡音さんのことを考えていた。喋るのが苦手なだけだと思っていたけれど、何かもっと別の問題を抱えているのかもしれない。
……って、人のことをあれこれ詮索すんのもなあ。
「レン、どうしたんだ。またぼーっとして」
「ちょっと考え事」
「悩みがあるんだったら聞くぜ」
「悩みってほどじゃない。ところでクオ、お前、ガラスって言われて何連想する?」
「なんだよ、今度は連想クイズか?」
クオは思い切り呆れた顔になったが、一応返事はしてくれた。
「ガラス……ガラスねえ。窓だろ、コップだろ、電球だろ……ぱっと思いつくのはこんなところか」
「うーん……」
確かにどれもガラスでできてるが……。なんか違うよな。なんで気を失う前に巡音さん、ガラスって呟いていたんだろう?
「ガラスの靴」
クオは突然、そんなことを言い出した。思わず顔をあげる。
「……へ?」
「『シンデレラ』だよ。ミクなら絶対そう言うね」
ああ、あれか。アニメにもなってる有名なおとぎ話だ。それもなんか違うなあ……。そんな、ロマンチックな雰囲気じゃない。
じゃあ、ガラスってどういう意味だ?
「うーん、そうじゃないんだよな……」
考えたが、俺にはわからなかった。
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