それからしばらく、俺たちは戯曲の話をしたり、公園を散歩したりして過ごした。巡音さんも午後になると多少は気分が上向いてきたらしく、笑ってくれるようになった。
三時になると、巡音さんは淋しげに「もう帰らなくちゃ。今日はありがとう」と言って、帰って行った。……本当のことを言うと家まで送って行ってあげたかったけれど、向こうの家の事情を考えると無理だな。
俺も帰ることにする。何気なく携帯を取り出して確認すると、メールが一件入っていた。姉貴からか。チェックすると「昨日買ってきた食材を無駄にしたくないから、今日と明日の夕飯当番変わってくれない?」と書かれていた。そういや明日は姉貴が当番だったっけ。俺としても別に異存は無いので「いいよ」と書いて、メールを送信する。
家に帰ると、姉貴はまだ帰っていなかった。ま、そんなにしないうちに帰って来るだろう。日が暮れるのが早いので、カーテンを閉めて明かりを点け、洗濯物も外しておいてやる。風呂も洗っとこう。
やっといた方がいいことを全部終わらせると、俺は自分の部屋で、姉貴にどう話せばいいかを考えた。
「あのさ、姉貴」
そして夕食の時間、俺は姉貴に巡音さんとのことを話すことにした。
「大事な話だから、真面目に聞いてほしいんだ。その……昨日、巡音さんから聞いたんだけど」
「リンちゃんから? 何を聞いたの?」
「……姉貴の後輩だっていう、巡音さんのお姉さん。その……なんでも、部屋にずっと引きこもっていて、もう三年になるんだって」
俺がそう言うと、姉貴は箸を置いて考え込んでしまった。
「レン、それ、リンちゃんの方から教えてくれたの?」
しばらくしてから、姉貴が口にしたのはそんなことだった。……俺が問い詰めたんじゃないのかを知りたいらしい。
「……ああ。まあ、その前に俺の方でも『悩みがあるんなら話してくれ』とは言ったけど」
それを聞いた姉貴は、難しい表情でため息をついた。……変なことを言い出さなきゃいいんだが。いやでも、姉貴だって後輩のことぐらい心配だよな。
「リンちゃんは、その他には?」
「お姉さんと全く話ができないことを悩んでた。なんでも喧嘩して一週間近く喋ってないとかで。どうして自分は話ができないのかって」
姉貴は更に難しい表情になって、額を押さえた。ちゃんと考えてくれるのは嬉しいんだが……同時にちょっと怖い。
「あんたとしてはどう思うの?」
「俺としては正直、巡音さんが一人で悩んでも仕方のないことだと思う。いくら巡音さんがお姉さんと話をしたいと思っていても、お姉さんの方にも話をしたいって気持ちが無いと、どうにもならないんじゃないかって。でも、あんなに深刻な表情されると、そんなこと言えないし」
俺だったら確実に放置するんだが。巡音さんにそれを薦めるわけにもいかない。
「つまり、私にハクちゃんを説得しろと?」
「……ご明察。姉貴、どうにかできない?」
上のお姉さんの方はどうしようもないだろうが、下のお姉さんの方なら、まだ何とかなるんじゃないだろうか。なんか姉貴慕われてたっぽいし。使えるものはなんでも使え、だ。
「姉貴だって気になるだろ。後輩が引きこもりだなんてさ」
「あ~、そのことだけど……実は私、知ってたのよね」
姉貴の爆弾発言に、俺は文字通りその場に固まった。どういうことだ?
「知ってたって……」
「ハクちゃんが引きこもってること」
しれっとそう答える姉貴。ちょっと待て。姉貴そのことを知ってたわけ?
「……知ってたんなら、なんで俺に教えてくれないんだよっ!?」
「ハクちゃんから、このことは黙っていてくださいって言われていたから。でもまあ、リンちゃんから教えて貰ったんなら、もういいわね」
普段どおりの口調で姉貴は言った。……何だか面白くない。そりゃ、その、ハクさんって人が話すなって言ったんだから、姉貴が黙っていたのは当然のことではあるんだが……。
「いつから知ってたの?」
「リンちゃんがこの家に来た時、態度が変だったからハクちゃんに連絡取ってみたの。それからまあ、色々あってね……引きこもってるって教えてくれたのは先週よ」
確かに……姉貴は「黙っていられる」タイプじゃない。しかし、俺に何も言わず、さっさと連絡を取っていたとは……盲点だった。
あれ……てことは、ハクさんって人と話したんだよな?
「姉貴……もしかして、引きこもってる理由も聞いた?」
「聞いたけど、あんたには教えてあげられないわよ。ハクちゃんのプライベートに関わるしね」
予想どおりの返事が返って来た。しかし……妹にも話してない事実を話してもらえる辺り、姉貴はよほど信頼されているらしい。
「理由自体は言わなくていいから、一つだけ教えてくれ。ハクさんの引きこもりの理由は、巡音さんじゃないよね?」
多分違うだろうとは考えているけど、ここで確認を取っておこう。
「リンちゃん? 全然違うわよ。何、まさかリンちゃん、自分のせいって思ってるわけ?」
俺は頷いた。
「そこだけは全力で否定しておいてあげて。リンちゃんは無関係だから」
どうやら、巡音さんの懸念は完全に杞憂のようだった。姉貴がここまで断言する以上、間違いはないだろう。
でも……だとすると、お姉さんはなんで引きこもりやってるんだろう? 俺は目の前の姉貴を見た。……絶対に教えてくれないよな。姉貴はそういう人間だ。仕方ない。
「話戻すけど、姉貴、ハクさんって人のこと、説得できない?」
「リンちゃんと話をしろって?」
「ああ。正直、あの状態の巡音さんを見てられないよ。お姉さんのことで滅茶苦茶悩んでるんだぜ。あのままじゃ心労で倒れると思う」
ちょっと大げさすぎるかなあ……いや、いいや。これくらい言ってしまえ。
姉貴はというと、また思案する表情になった。
「……やってはみるけど、保証はできないわよ。ハクちゃんは家族に対して、強い不信感を抱いているし。正直、私に色々と話してくれる気になっただけでも驚きなのよね」
そんなにひどい状態なのか。まあ、ひどいから引きこもりなんてやってるんだろうが……。
「リンちゃんには、年単位で蓄積された負のエネルギーをどうにかするのは大変だから、しばらく時間くれって言っといてちょうだい」
「……わかったよ」
こりゃしばらく様子見か……。巡音さんをお姉さんのことで安心させることは、当分無理なようだ。
……じゃあ俺は戯曲の方に集中するか。他に考えることがあれば、巡音さんだって気が紛れるだろう。
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