日曜日を一日使って、俺は『ピグマリオン』をPCのテキストデータへと移した。かなり面倒だし時間がかかったが、ネットに公開されているフリーの訳とかが無いんだから仕方がない。これで、後はこのデータのどこに修正をかけるかを決めて、決定稿になったらプリントアウトしてからコピーしてみんなに配ればいい。
巡音さんのお姉さんのことは、姉貴に任せとこう。俺は全然接点が無いから動きようがないしな。……姉貴が上手くやってくれることを祈ろう。
そして次の日、俺は普段どおりの時間に登校した。校舎に足を踏み入れようとした時、聞き憶えのある声が聞こえて来た。
「待ってくださいっ! 僕のどこが駄目なんですか?」
「いやだから、さっきも言ったけど、わたしは全然あなたのことを知らないもの。それでつきあってくれって言われても無理よ……というか、手、離して……」
へ? 驚いて声の聞こえて来た方を見る。巡音さんと、演劇部の後輩のコウだ。何やってんだこんなところで。大体、一年の下駄箱ってここじゃないぞ。それにコウの奴、なんで巡音さんの手をつかんでんだ。
「これから知ってくれればいいんですっ!」
「はい……?」
「僕は巡音先輩が好きなんですってば!」
コウはそう言うやいなや、巡音さんに抱きついた。巡音さんが悲鳴をあげる。あの野郎!
「何やってんだバカ! 巡音さんから離れろ!」
俺はコウの肩をつかむと、力ずくで巡音さんから引き剥がして突き飛ばした。弾みでコウが派手な音を立てて、下駄箱に激突する。
巡音さんはというと、床にぺたんと座り込んで震えていた。顔が蒼白になっている。よほどショックだったらしい。……そりゃ、ろくに知りもしない男にいきなり抱きつかれたら、どんな女の子でもショックだろう。増してや巡音さんは箱入りだ。
「巡音さん大丈夫? 立てる?」
大丈夫かなと思いつつ手を差し出すと、巡音さんはその手をつかんでくれた。そのまま引っ張って、助け起こす。
「鏡音先輩いきなり何するんですかっ!?」
突き飛ばされたコウが、そんな文句を言っている。お前……どの面下げて、そんなこと言ってんだ!?
「それはこっちの台詞だっ! 巡音さんに何やってんだよ!」
「僕はただ、巡音先輩に告白をしてただけです」
「お前が今やったことは、告白じゃなくて痴漢って言うんだ、バカ!」
全く……こいつが妙に惚れっぽいのは知ってたが、たったあれだけの遭遇で巡音さんに目をつけるとは。多分一言も話してないだろうに。
「何やってんの?」
俺がコウを締め上げようとしていると――二度と巡音さんにちょっかい出さないように、きついお灸を据えておいた方がいいだろう――別の声がかけられた。そっちを見る。……蜜音だ。
「あ、蜜音。今このバカが」
言いながら、俺はコウを指差した。
「巡音さんにいきなり抱きついたから締め上げてるとこ」
まだ真っ青な顔で震えている巡音さんを見た蜜音は、気の毒そうな表情になった。それからコウを見て、今度は呆れ返った表情になる。そういやコウって、入部した当初は蜜音を追い掛け回していたんだよな。でもって張り倒されたんだっけ。
「……あんた、バカ? 何だってまたそんなことやったのよ?」
冷たい口調で蜜音はそう訊いた。
「蜜音先輩……もしかして、ジェラシーですか?」
蜜音は何も言わずに、自分の通学鞄でコウを殴った。コウがぎゃっと叫んでうずくまる。
「ったくどんだけバカなんだか……。鏡音君、このバカどこかに埋めてきて」
「そうだな、そうするか」
普段ならジョークと聞き流すんだが、今回ばかりは本気で頭に来た。
「あの……さすがにそれはかわいそうだと思うの……」
巡音さんがおずおずと口を挟んだ。いや、このバカに情けはかけなくていいから。何故かっていうと……。
「巡音先輩っ! 僕を気遣ってくれるんですかっ!?」
言わんこっちゃない。コウは感激したのか、凄い勢いで巡音さんめがけてダッシュしようとした。もちろん抱きつく前に張り倒したが。これ以上こんな奴を近づけられるか。
「いい加減にしろよお前は!」
「巡音さん、バカに情けはかけるもんじゃないわ。つけあがるだけだから」
蜜音が巡音さんにそう言っている。全くもってそのとおりだ。特にこいつ。
「あれ、どうしたんだお前ら、そんなところに集まって」
「おはよう……リンちゃんどうしたの!? 真っ青じゃない!」
あ、クオと初音さんだ。初音さんはさっと巡音さんの傍に駆け寄って、心配そうにその顔を覗きこんでいる。
「ここにいるバカが」
俺はもう一度コウを指差した。
「巡音さんにいきなり抱きつくというふざけた真似をしたから、締め上げてるんだよ」
クオと初音さんは、どっちも唖然とした表情になった。そりゃそうか。
「とりあえず埋めた方がいいと思うのよね。その方が世の中の役に立つと思うから」
淡々と言う蜜音。コウに向けられる視線は、当たり前だがひどく冷たい。
「いやそれは……さすがにまずいだろ。法に触れるぞ」
これはクオだ。えらく弱気だな。コウがクオを見る。
「初音先輩っ! 僕は初音先輩のアドバイスに従っただけなんですよ! 何か言ってくださいよ!」
その場にいる全員の視線が、クオに集中した。クオが思わず後ずさる。
「クオ、お前……このバカに巡音さんに抱きつけって言ったのか?」
返答によっては、クオであってもただじゃおかない。
「そんなこと言ってねえよっ!」
「初音先輩、嘘ついて自分だけ責任回避する気ですか!?」
「何が責任回避だ、俺はただ、グミを見習って積極的にアタックしてみたらって言っただけだぞ。それがどうして抱きつくことになるんだっ!?」
「グミはいつも躍音先輩に抱きついてたじゃないですかっ!」
「グミとグミヤは以前からの知り合いじゃねえかよ! お前とは全然状況が違うし、女が抱きつくのと男が抱きつくのとは意味合いが違うんだ、バカ野郎!」
クオがコウの頭をばしっとはたく。コウは涙目でクオを見上げた。
「初音先輩ひどいです……」
「うるさいこのたわけ!」
「あの……ちょっといい?」
初音さんが大きな声を出した。みんなそっちを見る。
「わたし、リンちゃんを教室に連れて行こうと思うんだけど。そっちの方が落ち着くと思うし」
あ……確かに、いつまでもここに立たせておくのもよくないよな。
「その方がいいかもね……巡音さんだっけ? 平気? 教室まで行ける?」
「あ……うん」
蜜音が巡音さんを気遣っている。巡音さんはまだ青ざめていたけれど、頷いた。
「じゃあ初音さん、巡音さんのことお願い」
「わかったわ。リンちゃん、行こっ」
初音さんは巡音さんの手を取って、行ってしまった。俺とクオと蜜音とコウが残される。と、そこへ……。
「よっ、どうしたんだ雁首揃えて」
「先輩がたおはようございまーす! コウ君もついでにおはよう」
グミヤとグミがやってきた。腕を組んでいたりする。……はあ。
俺はため息混じりに、グミヤたちに事情をざっと説明した。途端に、二人とも呆れた表情になる。
「お前は一体何考えてんだ……」
「コウ君今度は巡音先輩にちょっかい出したの? 懲りないねえ」
よってたかって責められたせいか、さすがにコウも少々反省した表情になりだした。といっても、許す気にはなれないんだが。
「あ、おい、グミヤ。こいつどうする? レンと蜜音は埋めてしまえって言うんだけど」
クオが困ってますと言いたげに、グミヤにそんなことを訊いた。
「あたしはそれに賛成です。コウ君は一度埋まった方がいい」
「賛成三、反対一、というわけで埋めることに決定」
「ちょっと待て蜜音、グミヤがまだ何も言ってないぞ」
「関係ない。躍音君が反対しても三体二だから」
「だからってなあ! グミヤ、お前部長なんだから何とかしろよ」
「都合のいい時だけ部長扱いするなよ。……まあでも、これは問題だなあ」
グミヤはのほほんとした口調で言って、コウを見た。コウが怯えた表情になる。……と言っても、正直こっちは苛立ちしか感じない。どれだけ巡音さんを怖がらせたと思ってんだか……。
「コウお前、自分が何やったかわかってるのか?」
「だから僕は愛の告白を……」
蜜音はコウのすねを蹴った。……素早い。俺が蹴ろうと思ってたのに。
「あんたのやったことで、巡音さんがどれだけ怯えてたか理解してるの?」
「でも怒ってはいませんでしたよ」
「ショックで怒る気力が湧いてきてないだけだ、このバカ!」
俺は怒鳴った。怒ってなけりゃ許してもらえると思ってんのか、このバカは。どういう理屈だ。
「レンも蜜音も落ち着け。俺の話はまだ終わってない。とにかくコウ、お前のやったことは警察に通報されても文句は言えないことなんだ。告白するぐらいならまだしも、なんで抱きついたりしたんだ」
こんこんと、グミヤが諭すような口調で言う。コウはというと性懲りも無く、同じ言い訳を始めた。
「だからそれはグミを見習ったからであって……」
「あのねえコウ君、あたしとグミヤ先輩は中学時代から同じ学校で部活も一緒で、気心の知れてる仲なの! 状況が全然違うんだってば!」
……だからって、挨拶代わりに抱きつくもんじゃないと思うが。つくづくこいつはよくわからん。
「あのな、コウ。俺とグミじゃ基本的な腕力が違うだろ。グミが全力で抱きついてきたって、俺が嫌ならグミを振りほどくぐらい簡単にできる。けど、俺の方がそれをやったらグミは逃げられない。どういうことかわかるか?」
「えーと……?」
肝心のコウは首を傾げている。……お前、グミヤからこれだけ丁寧に説明されてもわからないのか?
「男が本気で抱きついたら女の子が逃げられないから、そういうことはするなってことなんだが……お前、わからないわけ?」
「あたし、グミヤ先輩になら幾らでもぎゅーってされたい」
横からいらんことを言うグミ。黙ってろお前は。
「うんうん、グミって柔らかくて抱き心地いいんだよな。髪もいつもふわふわでいい匂いがするし……」
……それは惚気か? グミヤの奴、グミとつきあうようになってから、段々壊れてきたような気がする。
「そう言えば巡音先輩も抱き心地が良かったです。……で、どうやったらグミみたいに言ってくれるようになるんですか?」
コウの奴は、全然状況がわかってないという表情で、そんなことを言った。……お前という奴はっ!
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