日曜日、わたしは久しぶりに自分でクッキーを焼いた。三年くらい前までは、自分でクッキーやケーキを焼くこともあったんだけど、いつの間にかやらなくなっていた。
 色々考えて、わたしは絞り出しクッキーとチーズを入れたパイクッキーを焼くことにした。どっちも前に――大分前だけど――作ったことがあるし、コツさえつかんでいればそんなに難しくない。絞り出しは見た目が可愛いし、チーズのパイクッキーは甘くないので、甘いのが苦手な人でも食べられる。……わたしもミクちゃんも、甘い方が好きだけど。
 幸い、クッキーはどちらも綺麗に焼けた。どちらも一枚ずつ食べてみる。うん、大丈夫。お母さんのようにはいかないけれど、ちゃんと美味しく食べられるものができている。
「あら、美味しそうに焼けたわね。お母さんももらっていい?」
 キッチンにお母さんがやってきて、そう言った。わたしが頷くと、お母さんはクッキーを一枚口に入れて、笑顔になった。
「うん、美味しい。これなら誰にあげても喜んで食べてくれるわ」
 お母さんに褒めてもらうと、認定してもらえたみたいで嬉しい。
「ありがとう。あ、お母さん、ラッピングバッグってどこにしまってあるの?」
「そこの収納棚の上から二番目の引き出しよ。タイも同じ場所。ミクちゃんに持ってってあげるの?」
「ええ、そうしようと思って」
「ミクちゃんもきっと大喜びするわよ」
 お母さんがキッチンから出て行った後で、わたしは引き出しからラッピングバッグを四枚とタイを四本取り出した。そしてラッピングバッグにクッキーを詰め、袋の口をぎゅっとタイで結んだ。


 月曜日、わたしは通学鞄にクッキーの包みを入れて登校した。なんだかわくわくする。そんな気分で、下駄箱の前で靴を履き替えていると、声をかけてきた人がいた。
「あの……すいません、ちょっといいですか」
 最初、わたしは自分に声をかけられているのだとは思っていなかった。朝だし、周りにはそれなりに生徒がいる。だから、振り向くことはしなかった。
「あの……すいませんってば!」
 声を張り上げられて、わたしはようやく、自分が呼ばれているのだと気がついた。靴を下駄箱に入れて鍵をかけ、そっちを見る。見たことのない男の子が立っていた。上履きの色からすると、一年生みたいだけど……。
「わたしに何か?」
 何か踏んじゃったのかと思って自分の足元を見てみたけど、特に何もない。ここは二年のスペースだから、邪魔になっているというわけでもなさそうだし……。一体何の用なんだろう?
「二年C組の巡音リン先輩ですよね」
「そうだけど……」
「僕、一年F組の早瀬コウっていいます」
 男の子はそれだけ言って、黙ってしまった。えーと……? わたし、この人に何かしたっけ……? 心当たり、全く無いんだけど。
 早瀬君と名乗った男の子は黙ったまま、もじもじしている。このままずっと、ここに立っているわけにもいかないんだけどな。
「あの……用事ないなら、わたしもう行くけど……」
「待ってください、あの、僕、演劇部なんです」
 演劇部ってことは、鏡音君の後輩だ。じゃあこの前の時、この人も一緒にいたのかな。一度にたくさん入って来られたので、一人一人まで憶えていないのだけれど。
「公演の作品選定のことなら、最終決定したのは鏡音君よ。わたしはあくまで助言しただけで……」
 わたしに何か言われても困ってしまう。
「違いますそのことじゃありませんっ! そうじゃなくて……あのっ! 僕、巡音先輩のことが好きなんです!」
「……え?」
 わたしは、言われた意味がよくわからなかった。わたしのことが好きって……わたし、目の前にいるこの人のこと、全く知らないんだけれど……。
「あ、あの……わたしたち、ほとんど初対面よね?」
 この前に教室で会ったのが初めて……だと思う。だから向こうだって、わたしのことなんかそんなに知らないはずだ。それなのに好きって、どういうこと?
「それで好きになっちゃいけませんか」
「え? そんなことないと思うけど……でも、そんなこと言われても……」
 わたしは対応に困ってしまって、自分でもよくわからない返事をしてしまった。
「とにかく僕は巡音先輩のことが好きなんです」
「あの……わたしのどこがいいの?」
「僕、巡音先輩みたいに綺麗な人って初めて見たんです。あの……それで、僕とつきあってもらえませんか?」
 そう言われても……ピンと来ない。それに、何をどうしたらそうなるのかな……。わたしには全然わからないんだけど……。
「だってわたし、あなたのこと全然知らないし……」
「僕は構いませんから。お願いです、つきあってくださいっ!」
 何を言いたいのかさっぱりわからない。というか……何なんだろう、この男の子。わたしはだんだん、怖くなってきた。
「わたしには無理だわ。それじゃあ、これで」
 わたしは早瀬君を置いて、自分の教室に向かおうとした。その時、手がつかまれる。……え?
「待ってくださいっ! 僕のどこが駄目なんですか?」
「いやだから、さっきも言ったけど、わたしは全然あなたのことを知らないもの。それでつきあってくれって言われても無理よ……というか、手、離して……」
 わたしは相手の手を振りほどこうとしたけれど、向こうは思いのほか力が強くて、振りほどくことができない。どうしよう。
「これから知ってくれればいいんですっ!」
「はい……?」
「僕は巡音先輩が好きなんですってば!」
 次の瞬間、わたしは抱きつかれていた。一瞬で全身に嫌悪感が走る。いやだ、気持ち悪い!
「きゃああああっ!」
 わたしは悲鳴をあげてしまった。でも、向こうは全然動じてくれない。むしろ力が強くなっているような気がする。やだ……離して! 離してってば!
「何やってんだバカ! 巡音さんから離れろ!」
 不意に、向こうが離れた。解放されたわたしは、力が抜けてその場に座り込んでしまう。ショックで頭がよく回らない。ただ、助かったということだけはわかった。
「巡音さん大丈夫? 立てる?」
 あれ……なんで鏡音君がここにいるの? あ、そうか……登校してきたんだ。そういう時間だものね……。
 わたしは、差し出された鏡音君の手を取った。……なんだか安心する。
「鏡音先輩いきなり何するんですかっ!?」
 わたしが鏡音君に立たせてもらっている間、さっきの男の子が、鏡音君にくってかかった。……また、助けられちゃったんだ。
「それはこっちの台詞だっ! 巡音さんに何やってんだよ!」
「僕はただ、巡音先輩に告白をしてただけです」
「お前が今やったことは、告白じゃなくて痴漢って言うんだ、バカ!」
 わたしはぼんやりと、二人のやりとりを眺めていた。鏡音君、ひどく怒ってるみたい……。
「何やってんの?」
 横から、別の声が割り込んだ。そっちを見ると、髪の長い女の子が立っている。誰だろう……どこかで見たことあるような気がするけど……。
「あ、蜜音。今このバカが、巡音さんにいきなり抱きついたから締め上げてるとこ」
 鏡音君はそう言って、早瀬君を指差した。蜜音さんと呼ばれた女の子が、呆れた表情になる。
「……あんた、バカ? 何だってまたそんなことやったのよ?」
「蜜音先輩……もしかして、ジェラシーですか?」
 次の瞬間、鈍い音がした。蜜音さんの鞄の角が、早瀬君の後頭部にめり込んでいる。
「ったくどんだけバカなんだか……。鏡音君、このバカどこかに埋めてきて」
「そうだな、そうするか」
 なんだかよくわからないうちに、話がまとまりかけているみたい。……埋めるって、何を? その男の子? それはまずいんじゃ……。
「あの……さすがにそれはかわいそうだと思うの……」
 それに、人を埋めるのは犯罪よね。鏡音君にそんな真似してほしくないし……。
「巡音先輩っ! 僕を気遣ってくれるんですかっ!?」
 え? さっきの子がまた起き上がって、わたしの方に向かって来ようとした。やだ……怖い! 恐怖と嫌悪感が甦った。思わず自分の両腕で自分の肩を強く抱き、きつく目を閉じる。
 次の瞬間、また鈍い音が響いた。目を開けると、早瀬君が倒れている。……何があったの?
「いい加減にしろよお前は!」
 倒れている早瀬君に、鏡音君が怒鳴っている。
「巡音さん、バカに情けはかけるもんじゃないわ。つけあがるだけだから」
 蜜音さんは、わたしに向かってそう言った。えーと……よくわからない。というか、まだ頭がはっきりしなくて……。
「おはよう……リンちゃんどうしたの!? 真っ青じゃない!」
 聞きなれた声に、わたしはそっちを見た。……ミクちゃんだ。わたしのことを、心配そうに覗き込んでいる。あ、ミクオ君もいる。鏡音君たちと何か話しているみたい。
「あ……ミクちゃん、おはよう……」
 鏡音君を含んだ演劇部のみんなは、さっきからずっと激しい調子でやりあっている。ミクオ君が何か叫んでるけど……。駄目だ、うまく頭に入ってこない。
「……リンちゃん、鞄は?」
 ミクちゃんが訊いてきた。あれ……わたしの鞄はどこだっけ? あ、あったあった。さっき落としてしまったんだ。わたしは自分の鞄を拾って、胸の前に抱え込んだ。
「ねえ、平気?」
「多分……」
 ミクちゃんはもう一度わたしの顔を覗きこんでから、声を張り上げた。
「あの……ちょっといい? わたし、リンちゃんを教室に連れて行こうと思うんだけど。そっちの方が落ち着くと思うし」
「その方がいいかもね……巡音さんだっけ? 平気? 教室まで行ける?」
 蜜音さんがこっちにやってきて、やっぱりわたしの顔を覗きこんできた。返事しなくちゃ……。
「あ……うん」
「じゃあ初音さん、巡音さんのことお願い」
 蜜音さんが軽くわたしの背を叩いた。ミクちゃんがわたしの手を握る。
「わかったわ。リンちゃん、行こっ」
 わたしはミクちゃんに連れられて、その場を後にした。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

ロミオとシンデレラ 第三十六話【もう飛ぶまいぞ、この蝶々】前編

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投稿日:2011/12/03 19:10:40

文字数:4,088文字

カテゴリ:小説

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